2025年7月4日金曜日

術後の地獄

 




6月26日、午後1時40分、慢性硬膜下血腫の手術は
無事に終わった。

私は手術台から自分のベッドに移され、
4人部屋の305号室の廊下側になった。

術後、家族は執刀医から説明を受け、
帰っていった。
するとすぐに担当の若い女性看護師と
チャラい男性看護師が両脇にやってきた。

今から、「完全絶食」と「絶対安静」の
約20時間が始まるのだ。

「完全絶食」とは
水1滴さえ飲むことが叶わず
飲まず食わずで過ごすことで、
初めて水を口にできるのは
ドレインしている頭のチューブが抜ける
27日の8時半過ぎだし、
食事はその日のお昼ご飯からだ。

術後、早くも喉の渇きを覚えていたのに
耐えることができるのか。

「絶対安静」とは
ベッドに横たわったまま、
頭のドレイン・チューブを抜くところまで
仰向けに寝たままでいることで、
ベッドに起き上がることはもちろん
横向きに寝ることさえ許されない。

元々、横向きに寝る習慣の私にとって
仰向けに寝ること自体
かなりの苦痛を伴う。

それなのに、若い看護師ふたりは私の脇に立ち
「転落防止のために柵をしますね」
「ごめんなさいね。チューブを無意識で抜いちゃう人
がいるので、拘束しなければならないんです」
「ゆるめにするので我慢してくださいね」と
私の両手首にぐるぐると拘束帯を巻き付けた。

拘束帯はベッドの柵にくくり付けられたので、
いくらゆるめといっても
私の手は胸元にさえ届かない。

しかも、術前にむくみ予防のため
「弾性ハイソックス」をはかされたので
ひざ下は全体にギュっと締め付けられている。
ひざ上の部分にハイソックスの上部がきていて
輪ゴムでくくったかのように
ひざ上の腿の肉に食い込んでいる。

なぜ横向きにさえなれないか訊くと
血液をチューブから外に出しているけど
体勢が変わると髄液など大切な脳の部分も
流れ出てしまい、
頭痛やめまいなど後遺症が残るからと
説明を受けた。

それは困る。
とは思うものの、拘束され身動きがとれないとなると
妙に顔のあちこちが痒くなる。
小鼻の脇、顎の先、眉頭など
無性に搔きたくなる衝動に駆られるが
手はまったく顔には届かない位置に固定されている。

かゆみを意志の力で我慢するのは
想像以上に辛い体験だった。

拘束帯は左手の点滴用の3㎝の針の真上に巻かれ
それでなくとも痛いのに
さらに締め付けられて痛みが増している。

手術した部分は髪の毛の束をわしづかみにして
誰かが引っ張っているような痛みがある。
目の奥がどんより重だるい。

午後1時50分。
最初から喉がカラカラなのに
こんな状態で
明日の朝8時半まで、どう過ごせばいいのか。

時計の針は遅々として進まないのに
結局、私は一睡もできないまま、
身じろぎもせず約20時間
この体勢に耐えなければならなかった。

『もういい加減、時間が経った。
きっと夜中に違いない』と思ったが
部屋の電気も廊下の電気もついたままだ。
『寝られないから電気を消して欲しい』と思ったが
時間は夜中どころか、まだ夜の8時だった。

それをチャラ男から聞いて知った時、
「あとまだ12時間もある」と
絶望した。

手術後の患者にはちょっちゅう見回りがやってきて
血圧測定と体温測定が行われ、
その度に「ごめんね。辛いよね。
手術よりこっちの方が辛いよね」
と声をかけてくれる。

いつの間にか夜間勤務の看護師さんに代わっていて
若くてチャラいふたりはいなくなった。

病院は夜9時消灯。
静まり返った病室の階下に
この日は何台もの救急車のサイレンが
吸い込まれていった。
きっと脳梗塞や脳出血の重篤な患者さんだ。
廊下をバタバタせわしなく走る足音が聞こえた。

「今日はやけに救急車が多いなぁ」
そんなことを考えながら
進まない時をまんじりと刻んでいた。

真夜中、静けさが戻ると
「エンドーさん、早く来て~」
「エンドーさん、どこにいるの」
「エンドーさん、ドライヤー持ってきて~」と
しゃがれた男性の声が遠くに聞こえた。

「うるせぇ、黙れ、夜中なんだから静かにしろ」
若い男性の声でどなりつけている。

エンドーさんは夜勤の看護婦さんのことだろう。
「ごめんね」と声をかけてくれた優しい人なので
しゃがれ声の老人も頼りにしているにちがいない。

私の枕元には術後管理の計器がおかれ
心音と何かの音と
押してもいないのにナースコールの音が
定期的に鳴っている。
その度にオレンジ色のライトが点滅するのが
目に眩しい。

オムツをしたのは手術直前の12時半だから
すでにおしっこを我慢して17時間ぐらい経つ。
お腹をさわると痛いぐらいに張っているけど
どうやったらオムツの中におしっこを出せるのか
わからない。

孫1号や孫2号のおしっこでパンパンになった
オムツを思い浮かべ、
ただ開放すればいいんだと思っても、
どうやっても出すことができない。

老人ホームで拘束されることはもちろん
意識がしっかりしているのに
オムツをされた老人が
人間の尊厳もクソもないと怒るのが
心の底からよくわかる。

結局、私は明け方6時頃、
限界を迎え、
お腹を拘束帯をつけた手でギューッと押し
無理やりおしっこをオムツの中に出した。

朝7時半、朝ご飯を運ぶため、
周囲がにぎやかになってきた。
私には朝食はまだない。

8時過ぎからは回診で先生が回ってくる。
その時、頭のチューブが外されれば
この地獄ような20時間も終わる。

おしっこで濡れているオムツ姿ではまずいと思い、
思い切ってナースコールを押し
オムツ交換を申し出ようと思った。

するといないと思っていたチャラい男性看護師が来て
「何?」と私の顔を覗き込んだ。
「オムツ交換をしてほしいので
女性の看護師さんを呼んでもらえますか」というと
「今、救急車がきて対応しているから
その後でいい?」と言われた。

本当に男の看護師なんて使えない!!

しばらくして
「ごめんね~」とエンドーさんがやってきて
オムツ交換をしてくれ、
ホットタオルで顔を拭いてくれた。
「あとちょっと。チューブを抜くまでだからね
今、先生がいらっしゃいますからね」と
念を押し、励ましてくれた。

こうして私の人生でもっとも長い1日が終わり、
8時半過ぎ、執刀医の先生が救急対応を済ませ、
チューブを抜きながら
ベッド脇のバッグを見た。
「100CCは出ていますね。
術中に20CCが出たと思うので大丈夫でしょう」
と言って
次の患者さんのところに向かっていった。

この病院には4階がない。
304号室も504号室もない。
4は「死」を連想させるから
昔から病院や医療機関では忌み嫌われてきた。
ホテルでさえ使わないところもあった。

もはや昭和の因習かと思っていたが、
この日の体験で
意外と私も「死」に近いところを
ウロウロしていたのではいう気がしてきた。

その日の夕方
病室が305から503に変わり
窓際の明るい場所に移された。

窓の外には夕焼けが広がり、
病院の裏の建物と駐車場が見えた。
人が車から荷物を取り出したり歩く姿を
上から眺めながら
「戻ってきた」という実感がした。





2025年7月3日木曜日

硬膜下血腫 手術体験記

 







6月26日13時より、
上永谷の秋山脳神経外科病院にて、
慢性硬膜下血腫のドレイン手術が行われた。

23日に外来で受診し、MRIとCTを撮った後、
決まった手術なので、
救急車で運び込まれたとかではない。

この2日間はカウンセリングのキャンセルや
その他仕事の調整などをして
当日はダンナに車を出してもらい
普通に旅行カートをガラガラ引いて入院した。

私だけ3階の手術室のあるフロアに行き、
手術の2時間くらい前から
手術着に着替え、まずは点滴の針を入れる。

手術日当日の看護師さんは
担当は若い女性看護師だったが
他は若い男性の看護師がふたり。
30代のベテラン女性看護師さんという顔ぶれ。
この病院は男性の看護師が多いなという印象だ。

私の血管は細いので採血の時は大体
嫌がられるのだが、
点滴のルートをとる針は採血の時より
一段太い20Gというごつい針で長さも3㎝ぐらいある。

案の定、担当の若いきゃぴきゃぴの看護師は
「どうしよう、血管がないわ」と騒ぎ
「きゃーごめん、染み出たわ」と
2度もルートを取るのに失敗し、
みるみる左腕に内出血の染みが2か所できた。

見かねた先輩看護師が代わり、
「ここは痛いよ、我慢してね」と
手首のすぐ下に狙いを定め、
20Gの針を刺した。
かなり、痛い!!
しかし、さすがにベテラン看護師だけあって
何とか1発でルートをとることに成功。

2種類の薬液の点滴が始まった。
12時半、最後のトイレを済ませ、オムツに。
ここからはベッドに横たわったまま、
次の日の朝まで身動きができない。

硬膜下血腫の手術は部分麻酔で行われる。

とはいえ、右の頭頂部に3㎝くらいのメスを入れ、
その下の頭蓋骨に1円玉ほどの穴を開け、
中に溜まった血をチューブを入れ自然に吸い出す。

頭蓋骨の穴は自然に再生したりはしないので、
セラミックのふたをしてから、
頭皮を縫合するのだという。

それにしても、いつ麻酔を打つのか、
何事が行われるのか全く知らないが、
12時55分になっても、まだ頭皮に感覚はある。
これで頭蓋骨に穴を開けるって怖すぎやしないか。

「先生、まだ頭皮に感覚があるんですけど」
「大丈夫ですよ~」と言っている間に
手術は始まった。

目を開けているわけではないが、
音はすべて聞こえている。

ゴトゴト ゴリゴリ コンコン ジュー
ギリギリ バチンバチン…
何の音かは分からないが種類の違う音がする。

「はい、終わりましたよ」と執刀医の声がした。
手術終了はたぶん1時40分。

30分ほどで手術は無事に終了した。
よくドラマで観るように手術台から
何人かの手で自分のベッドに移し替えられ
そのまま手術室の隣の病室に戻された。

すぐに外で待っていたダンナと次女が呼ばれ
ベッドのそばまで来てくれた。
執刀医の先生がふたりに
「手術中に20CCくらいは出たので、
今夜一晩かけて自然にチューブから
もう100CC位出るはずです。
それまでは安静にしなければならないですけど
手術自体は成功しましたので大丈夫ですよ」と
話している声が聞こえた。

頭からは細いチューブが出ているらしく
ベッドわきにぶら下げたビニールのバッグに
髄液に染み出た血液が溜まっていく。

「何色の液なの」と訊くと
「血の色」と次女が答えた。

そこからは手術より辛い20時間が始まるのだが
そんなことは知らない私は
「じゃあ、明日はアイ子さんが来てくれるからね」と
言って帰っていく次女とダンナを見送った。

頭は次第に麻酔が切れたのか
髪の毛を誰かにギュッと引っ張られるような痛みで
枕に右頭頂部をつけることができない。

若い女性看護師と男性看護師がやってきて
「大丈夫ですか。何かありますか」と訊くから
「喉がヒカヒカです。お水飲めますか」と言ってみた。

「ごめんね~。お水は飲めないのよ。
スポンジで喉を湿すぐらいかな、訊いてくるね」と
言って先生の指示を仰ぎにいった。

結局、吸い飲みでほんの数滴水を垂らしてもらった。

最後に水を飲んだのは
朝10時くらいか。

「完全絶食」
水1滴さえ飲めない絶食がここから
次の日の朝8時半、チューブを抜くところまで
続くという。

午後1時半の段階で喉がカラカラだというのに
そこから水さえ飲めない18時間。
地獄の完全絶食の始まりだった。

あぁ、聞いていないわ~。

「死に水」とはよく言ったものだ。
人間、最後に欲するのは水だということが
よく分かった。

誰か、私にお水をください…。