紫陽花展が終了して2週間も経つのに、
その間、1本もブログをアップできなかった。
アップするに値する大したネタがなかったからではなく、
とにかく忙しかったからだ。
6月のカレンダーを見ると、
紫陽花展が11日から17日で、
その間と前後に通常なら行われるお稽古事や作業を月の後半に振替え、
更に最近増えてきたカウンセリングの予約を受け、
時間があれば、新作の木版の彫りにいそしみ、
孫の子育て支援に向かい・・・と、
めまぐるしく日々が過ぎていった。
そんな日々の中で、
カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)を受賞した『万引き家族』を観た。
是枝裕和監督はこれまでも日本人の家族のあり方をテーマに据え、
温かい目線で心の動きを丁寧に追い、
映画を通して、鋭い問題提起を行ってきた。
つい最近も5歳の女の子が義理の父親からの虐待の果てに亡くなった事件が
報道されたばかりだが、
今回の『万引き家族』もそうした虐待を受けていた子ども、
育児放棄された子どもがでてくる。
他にも、老親が亡くなっているのに、死亡届を出さずに、
年金を不正受給し続ける子ども達。
年齢を偽り、法律ギリギリの店で働く女、
そうした場所に心の拠り所や肌のぬくもりをみつけにくる社会的弱者の男など、
日本社会の裏の顔とでもいうような側面が描かれていた。
タイトルの『万引き家族』のトーンからは想像もできない重いテーマだった。
そして、サブタイトルには
「盗んだのは、絆でした」とある。
この映画を観て、ひとりひとりが様々なことを考えたことだろう。
私は自分のことに忙殺されている毎日だったのだが、
10日ほど前にお隣のひとり暮らしのおばあさんが亡くなった。
ある朝、警察車両がうちの斜め前に止まっていたので、
斜め前のおじいさんが亡くなって、検死でもしているのではないかとふと思った。
そうしたら、亡くなったのは斜め前ではなく、
お隣の昨日まで元気に外に出掛けていたおばあさんだったのだ。
前の晩、立ち寄った息子に少し具合が悪いと訴えたのに、
本人が救急車を拒んだので、そのままにしたら、翌朝亡くなっていたそうだ。
心筋梗塞だったとか。
1週間後、息子さんが簡単な菓子折をもって挨拶にみえた。
こうして、いつのまにか隣に住んでいたはずのおばあさんがいなくなった。
毎日、お隣の物干し台に何も干されていない風景をみながら、
人間、案外、あっけないなぁと感じている。
また、私の友人(元紫陽花展のメンバーで日本画の作家)のお母様が、
数日前に亡くなった。
何年も前から、お母様はシングルの友人とふたり暮らしで、
ご高齢ゆえに徐々に身の回りのことが出来なくなっていた。
その介護のためもあって、友人は紫陽花展を辞めた。
友人の手厚い介護を受け、95歳の天寿を全うし、
自宅で静かに旅立たれたお母様。
その小さなお葬儀に参列させていただきながら、
そんな風にある意味幸せに旅立たれた方でさえも、
人の最期はかなり寂しいものだと感じてしまった。
昨年の自分の作品は、時計草を用いて、
時の長さや時の重なり、世代交代などをテーマに創ってきたので、
思うところがいろいろあった。
結局は
『一日一日を大切に生きる』
それしかできないのではと思う。
で、大切に生きるって、どういうこと?
大切にしているものって何?
それをむつむつ問いかけながら、
今日はこれからカウンセリングを2本。
人の悩みに寄りそって、
何か私にできることがあるのなら・・・
それは私とって意味のある大切なことなのです。