ゴールデンウィーク2日目の今日、
鶴見にある曹洞宗大本山総持寺で、1日禅体験をしてきた。
鶴見大学の生涯学習講座のひとつだったのだが、
鶴見大学と総持寺はお隣どうしで深い関係があるらしく、
総持寺のイベントといっても過言では無い内容なのに、こうした講座がある。
禅の教えや座禅、写経などには前々から興味はあったのだが、
旅先のお寺で精進料理をいただくぐらいで、なかなか体験できずにいた。
なので、春の講座案内に
「大本山総持寺で禅をはじめよう ー静かに己を省みる機会としてー」という
タイトルを見つけたときは一も二もなく申し込もうと思った。
内容は
9時45分集合で、まず座禅のできる恰好に着替え、説明や諸注意を受ける。
10時から11時10分まで写経。
11時30分から精進料理のお食事。
12時30分から、総持寺参禅室長 花和浩明老師の法話。
2時から座禅堂にて50分の座禅。
3時から修行僧による総持寺諸堂拝観。
4時解散。
そう、かなりの盛りだくさんな内容の上に
輪島塗の総持寺ネームの入ったお箸のお土産付き。
かなりサービス精神旺盛なお寺さんである。
参加者は募集定員いっぱいの50名。
男女比はちょうど半々。
参加者は20代から70後半までと、守備範囲の広さにビックリ。
事前の持ち物ルールなどもかなり厳しく、
パチパチのジーパン不可。シャカシャカ鳴るシャカパンも不可。
イヤリングやネックレス、濃い化粧や匂いの強い整髪料も不可。
ストッキングも不可で座禅の時は素足になると書いてある。
また、座禅のお堂は冷えるので、何か羽織るものがあるとよいなどと丁寧だ。
写経をする広々したお部屋の中央にも仏様が奉られており、
私達の所行を見守っていて下さる。
席は自由で、私は中央の前から3番目に座った。
写経を始める前に老師が「座り座禅を少しして、心を整えましょう」といわれた。
背筋を伸ばし、顔は真っ直ぐのまま、目線だけ45度落とすと半眼になる。
すると自分の机の向こう端に前の人の椅子が見え、
70代男性の妙に濃いピンク色の素足のかかとが見える。
『ちょっと生々しくて嫌だな』と思う間もなく、
視界がぼんやりして、ものの輪郭が分からなくなった。
そうやって呼吸を整え、少し心が静まったのを感じてから、
用意されている小筆を取った。
用意されている小筆を取った。
みんなが使い回した小筆は毛先が1本にまとまらず、
最初の1行は1字書く度に墨をつけないと書けない。
「般若心経」を書き写すのだが、下のお手本が透けているけれど、
正確にはわからない漢字も多く、あちこちで半紙をめくってお手本を見る音がする。
私はすぐ後ろの男性がさっきから咳払いをするのが気になって、
思わず後ろを振り向いて顔を見たくなるのを我慢する。
しかし、5行ぐらい書いた頃だろうか、1度墨をつけたら行の半分ぐらいまでは
書けるようになって、
筆の抑揚、止めハネのリズムみたいなものが様になってきた。
いつのまにか後ろの男性の咳払いも止んで、
広い部屋には50人の集中する気配が満ちて、凛とした空気になっている。
私も最後の「為 心願成就」と年月日、名前を書く頃には、
思うように筆が運んで、自分の心が静まり、落ちついているのを感じた。
場所を移しての精進料理のお食事も作法に則り、
箸袋の裏に書いてある「五観の偈」をみんなで唱和してからいただいた。
思いの外、見た目も贅沢な感じで、味付けもしっかりしていて、とても美味しかった。
午後はいよいよメインイベントの座禅。
修行僧の雑巾がけで有名な750メートルあるという長い長い廊下を
若いお坊さんに連れられ、奥へ奥へと進むと、
座禅の為のお堂に着いた。
薄暗い堂内には立派な文殊様が奉られている。
壁に向かって参加者50名がひとり一畳のスペースの前に立ち、
作法に則って、畳の台によじ登り、クッションみたいな丸い座布団をお尻に敷き込み、
座禅を組む。
総持寺では例のパシッと肩を叩くあれは、
自分が眠気や心の乱れを感じた時、合掌して修行僧にその意思を伝え、
少し前屈し頭を左に傾け、右肩を叩いていただく。
自分から所望しない限り、
後ろに来て、いきなり肩をパンパンされて、バシッとされることはない。
左右の人が誰かやってくれないかなと期待しつつ、誰もお手本を見せてくれないので
結局、私はやらず仕舞いになってしまった。
座禅は思い切り組んだ下の足の甲が痛くて、長時間、持つかなと心配したが、
暗い堂内で半眼になると壁と畳との境目あたりに薄明かりが差していて、
それをぼんやり見ながら浮かんでくる邪念を受け流している内に、
痛みもさほど感じなくなり、自分が微動だにせず座っているのを感じた。
20分が終わると鐘が鳴らされ、一度土間に降り、歩き座禅をいう座禅に移る。
呼吸を長く吸って吐いて、半足(15㎝)進む。
まるで国会中継で見た「牛歩」にそっくり。
それを5分続け、また、自分の畳に戻って20分の座禅だ。
後半の座禅を組んでいる最中、
ふいに去年の暮れに亡くなった友人の今の様子が脳裏に立ち現れた。
彼女は今、今度はメキシコ人に生まれ変わろうとして、
どの両親の元に生まれようか捜しているところだという。
今度は男性になるみたいだ。
今度は男性になるみたいだ。
赤ちゃんはあらかじめ天国でこの親の元に生まれると決めて降りてくるという話は
聞いたことがある。
信じるも信じないもその人次第だが、
私は彼女が亡くなって約半年。
すでに、次の人生を見つけようとしていると知って、嬉しくなった。
もちろんこの話を信じる人も信じられない人もいるだろう。
私は、彼女が67才という少し短い命を終えたけれど、
成仏したからこそ、転生できるのだと信じたい。
成仏したからこそ、転生できるのだと信じたい。
暗いお堂の中で自分の口角が上がり、静かな笑みが浮かんだのを感じた。
一度座禅や写経を体験したかったというミーハーな考えで
今回の講座を受講したと思っていたが、
「このことが知りたかったんだ」
そう思い至った時、
座禅の意味が少しわかった気がした。