2018年10月31日水曜日

最後のお免状

 
 
表千家茶道における最後のお免状『盆点』を、
今年の1月、今のお茶の先生にとっていただいた。
 
3月で表千家ではお家元の代が変わった。
 
先代のお名前でお免状がいただけるのは、
2月中に申請があった人だけというので、
先生のお許しを得て、1月に申請していただいたものだ。
 
お免状自体が届いたのは3月だったと思うが、
それから今日まで、『盆点』に関するお稽古はないままに日が過ぎていった。
 
いつになったら教えていただけるかは、先生のお考えひとつなので、
黙っていたのだが、
内心、もうそろそろ教えていただいても・・・と考えていたところだ。
 
何しろ、こうしたお免状は、そこまでのお免状をとった人でないと、
同じお茶室でお勉強することが出来ない。
人がやっているのを見ることさえ許されないという世界なのだ。
 
しかし、今回、私を含め、3名がこの最後の『盆点』を持っているということで、
別日を設けて、特別にお稽古をつけていただけることになった。
 
先生は初めて『盆点』をとった私のためにお道具組を考えて、
いつもは拝見出来ない箱書き付きのお道具や、
最後のお免状までたどり着いた者に贈るはなむけの言葉をお軸に込めて、
いろいろ用意してくださっていた。
 
お軸の言葉は『萬里一條鐵』
「物事を一筋に突き詰めると、必ず成就する」という意味で、
大徳寺三玄院 大真和尚の筆になる一行もの。
 
気が多くて、あっちに手を出し、こっちをつまんでという私には、耳の痛い話。
 
でも、先生曰く、
「ここまで精進なさったから、最後のお免状までたどりついたじゃない」と
慰めてくださった。
「まだまだこれからも一筋におきばりやす!」という意味だろう。
 
お花は如心斎好みの稲塚という珍しい花入れに、白い秋明菊が清々しい。
 
『盆点』というのは、唐物の大切なお茶入れを大事に扱うために
真塗りの四方盆に載せて、お点前する。
 
お点前の手順は『唐物』というお免状をいただいたときにお稽古したものに、
お盆の扱いを加えたものといっていい。
 
まずはだいぶ前に『盆点』をとられた一番弟子の方がお点前してくださったので、
私は次客を務めながら、食い入るようにそのお点前を見て、
2番目にそれを思い出しながらお点前するという流れだ。
 
年に1回あるかないかのこうした機会に、
お免状をもっている人は、目を皿のようにして、
お点前を見たり、実際にやらせていただいて、
帰ってから、記憶が飛ばないうちにノートする。
 
お茶の世界では、その場でノートを開くとかは禁じられており、
今、やっていないお点前の質問をすることさえ、許されていない。
録画をするとか、写メをとるなど、論外だ。
 
そうやって『相伝』といって、
限られた人にだけ、口頭で伝えて、伝承されてきたものなのだ。
 
お道具は
主茶碗に萩焼、十二代田原陶兵衛作。(ちなみに私は萩原・・・)
替茶碗に膳所焼、銘「秋の夜」尋牛斎箱書き付き。
 
茶器に鱗鶴大棗、尋牛斎箱書き付き。
 
茶杓に利休形真の茶杓と、
大徳寺三玄院、寛州和尚作、銘「和敬」
 
お軸の大徳寺の和尚様と、茶杓の大徳寺の和尚様は親子なので、
お茶の道を何代もに渡って極めているというところで、
ご用意くださったとのこと。
 
お茶は『初昔』 浜田園詰
いつものお抹茶より上等で、甘みを感じる美味しいお茶だった。
 
ピンクの小菊がふたつ重なったような主菓子『菊重ね』は、
京都の家元に入門した人に最初に出されるお菓子が
白い菊をかたどった主菓子なので、
「ここからが、また、入門のように新たな気持ちで」という意味で、
同じ菊形のものにしてくださったそうだ。
 
こんな風にお道具のしつらえには、
亭主の思いや願いなどが込められて、
単に季節らしい道具組にするだけではなく、
目的に合った趣向にすることが大切と、
実際に取り合わせの意味をお話いただきながら、教えてくださっている。
 
今まで、40年間に4人のお茶の先生のところに通わせていただいているが、
こんな風に、そのお免状をいただいた後の初稽古の時に、
お茶事を通してお祝いしていただいたのは初めてなので、
何だかグッとくるものがあった。
 
もちろん急いで帰って、お点前の手順やお道具の扱い方を
ノートに書き止めたのだが、
一番、心に書き止めるべきことは、
茶道とは、亭主がお道具組に込めた想いや意味合いで、
お客様をおもてなしするという雅な世界だということだろう。
 
先生、
お気持ちを心に留めて、これからも精進いたします。
ありがとうございました。
 
 
 
 


2018年10月28日日曜日

子育て支援御礼

 
 
 
 
 
 
長女が娘のベビーシッターやご飯作りに来てくれていることのお礼にと、
帝国ホテルのランチビュッフェに招待してくれた。
 
招待券は2名様でとあったので、
たまにベビーシッターと食事作りに駆り出されている次女を誘って、
出掛けることにした。
 
人気のレストランらしくすんなり予約は取れずに、
予定より1ヶ月ぐらい後ろ倒しになって、
ようやく今日、実現した。
 
レストランは17階にあり、窓際の席に案内されたので、
眼下には日比谷公園が臨め、
フラワーショーの開催中で、晴天に恵まれたせいもあり、
大勢の人で賑わっていた。
 
レストランの方も満席で、
入口はハロウィン仕様の飾り付けで華やかな感じだ。
 
それでも全体にはさすが帝国ホテル、子供っぽさはなく、
かなりの人数のスタッフが立ち働いており、
中央にふたつのブースがあって、
お料理ブースとスイーツブースでサーブしてくれるスタッフが何人もいるあたり、
そこら辺のビュッフェとはひと味違う印象だ。
 
ひとあたりブースを覗いてから、
自分の好みのものをお皿に取りテーブルに戻った。
私は手の込んだオードブル系サラダが好きなので、
シーフードマリネやごぼうサラダ、レストランオリジナルのポテトサラダなどを、
最初にチョイス。
 
それに加えて、スモークサーモンやハム類、
かぼちゃの冷製スープを一巡目としていただいたのだが、
それだけでだいぶお腹も気持ちも満足してしまった。
 
2巡目にこのレストランの名物、ローストビーフと
牛肉のパイ包みに温野菜、栗のポタージュスープときて、
もはやお腹は9分目。
 
とてもパスタとかカレーとかの入る余地なし。
 
なので、そのあたりはパスして、
3巡目はスイーツの盛り合わせに。
 
本当はケーキもたくさん種類があったし、
バニラアイスクリームにブラックチェリーのソースをかけていただく一品が
ぜひ食べてみたかったけど、断念。
 
自分が案外、食べられないことに軽くショックを覚えながら、
それでも、美味しい料理の数々に満足してレストランを後にした。
 
次女とはその後、腹ごなしに銀座まで散歩し、
4丁目のカフェで夕方までおしゃべりしてから解散した。
 
話はついつい次女の結婚はいったいいつになるのやらといったことに及ぶけど、
焦ってもいいことはないので、
待てば海路の日和があるに違いないと思うことにした。
 
長女が産んだ娘をかわいがり、お世話することで、
新しい家族が増えた楽しみを味わい、
そのお礼にと、こうして美味しいものも味わえたのだから、
あれもこれもと望むのは親のエゴだと思って自重しよう。
 
それにしても、夜になってもまだ、お腹が苦しいのはどうしたものか。
自重すべきは食べ過ぎだ。
 
何ごともほどほどに。
腹八分目。
 
それが本日の教訓なのでした。
 
 
 
 

2018年10月23日火曜日

追善興行『助六』

 
 
 
 
 
 
10月の歌舞伎座は、十八代目中村勘三郎の七回忌追善興行として、
勘三郎ゆかりの演目が組まれている。
 
その中で、20年ぶりに助六を演じる仁左衛門見たさで、
いつもの歌舞伎通の友人にお願いして、
夜の部のチケットをとってもらった。
 
今回は例の前から2番目ど真ん中というお席ではなく、
だいぶ後ろの舞台に向かって右に振れた通路側のお席だった。
 
それにはわけがあって、
助六が花道から登場した際、
舞台にのる直前、このあたりを見て、
ご贔屓さんにお辞儀をする所作が入るからだという。
 
実際には、花道の中央でもひとしきり番傘を持った助六があちらの客席、
こちらの客席にとお辞儀をして、喝采を浴びていた。
昔の芝居小屋の大きさだったら、
本当にこうして客席と役者が一体になったと感じるであろう。
 
当時の倍の収容人数の歌舞伎座であっても、それは同様で、
出てきて数分でお客の気持ちをわしづかみにして、
仁左衛門演じる助六は江戸の華を具現化して見せた。
 
もちろん七之助演じる傾城・揚巻も気位高く凛として、
玉三郞の揚巻を彷彿とさせたし、
傾城・白玉の児太郎も成長著しく、次期の揚巻候補筆頭だ。
 
また、勘三郎さんのもうひとりの息子・勘九郎も、
勘三郎が得意とした軽妙な役の間を会得して、
可笑し味のある役をうまく演じて、客席を笑いで温めていた。
 
早くして亡くなった勘三郎さんの歌舞伎にかけた情熱を、
息子だけに限らず、周囲の役者たちがみんな惜しんでいることが分かるし、
何とか意思を継いで、歌舞伎を盛りたてていこうという熱意にほだされる。
 
成長して立派な役者になりつつある若手をこの目で観ることの出来る幸せ、
若い頃からずっと観てきた玉三郞や仁左衛門、
脇でいい味を出している彌十郎など、
今回の演目を目の当たりに出来た歓びが湧いてきた。
 
私も傾城とまではいかないけれど、
黒地に蔦の柄の訪問着に『荒城の月』を思わせる袋帯を締め、
芸妓風にまとめてみた。
 
仁左衛門さんが挨拶くださった時には目があったような気もしたが、
単なる気のせいか・・・。
 
ご贔屓とまではまったくいかないけれど、
ご贔屓の友人にいわれのあるお席を調達してもらって、
すっかりその気を楽しんだ夜なのであった。
 
よっ、姐さん!!
 
 

2018年10月21日日曜日

小原古邨展と松籟庵

 
 
 
 
 
 
 
秋晴れの爽やかな上天気。
先週の日曜美術館で特集を組んでいた『小原古邨展』と
2月にお茶会を予定している『松籟庵』に行ってきた。
 
先に美術館に到着すると、地方の小さな美術館だというのに、
小原古邨なんて誰も知らないと思うのに、
日曜美術館の影響力はすさまじく、
なんと入場制限がかかっていて、40分待ち。
 
一瞬、ここは東博か?と疑うも、
ここでひるんで帰るわけにもいかず並ぶことにした。
 
すぐ後ろのご夫婦は日美を観て行きたくなった奥さんが、
全く興味のないご主人を連れて来たというパターンで、
ご主人のブーイングにあえなく諦め、戦列をはずれた・・・。
 
予想外の人出は、美術館側も開館以来の珍事らしく、対応に大わらわ。
 
しかし、入館後はさほど殺気立つということもなく、
静かにじっくり作品を鑑賞することが出来た。
 
とある大会社の倉庫に保管されていた保存状態のいい木版画240点を、
前期後期に分けての陳列で、
番組で紹介されたものもなかったものもあるが、
概ね、古邨作品のスタイル、彫りと摺りの技術は間近で堪能出来た。
 
帰りには入場制限は解けていたので、
私はどうやら一番混んでいるときに突っ込んでしまったようだ。
 
そして、もう一箇所、
すぐお隣に位置する茶室『松籟庵』にも寄ってきた。
川上音二郎と貞奴が住んでいたという別邸のあった所に、
ある人の1億円の寄付で建てられたお茶室である。
茅ヶ崎市が管理運営して貸し出している。
 
公共の建物ということで、
貸してもらえお茶室としては、近隣の数カ所と比べて、すこぶるコスパがいい。
 
お稽古に通っているお茶のお教室のメンバーに茅ヶ崎市在住の方がいるので、
その優先権を使わせていただこうと考えているところだ。
 
日時は2月を予定していて、
2月の使用希望者は11月1日に入札がある。
そこで、話し合いで日時が決定するという。
 
お庭には立派な梅の木が何本かあったので、
もしかしたら、2月なら梅観も出来るかもしれない。
 
懐石料理の段取り担当の私としては、懐石道具を別の友人から借りたり、
自分で創った陶芸作品の大鉢や陶板などを持ち込むにあたり、
車でどう行くのか、駐車場はあるのかなど、
心配事はいろいろあったので、
まずは場所と雰囲気が見られたのは安心である。
 
茅ヶ崎という場所はサザンの歌で知っているぐらいで、
実際は降り立ったことのない駅だったから、
うろうろ散歩するにもちょうど良かった。
 
天気が良く、海岸線まで出ると、遠くに歌詞にもある烏帽子岩が見えたし、
富士山もどどーんと正面にそびえていた。
 
案外、商業施設はない殺風景な街だったけど、
同じ神奈川県に住んでいても知らなかった街が少し身近になって、
お茶の友人が住む街、
お茶会を催すお茶室のある場所として、
急に親近感を覚えたのであった。
 

2018年10月15日月曜日

勘三郎再び 『法界坊』

 
 
 
 
2日続けて、映画館通い。
今日は東銀座の東劇まで出掛けて、
シネマ歌舞伎の『法界坊』を観てきた。
 
主演は6年前に亡くなった中村勘三郎。
 
今年は七回忌にあたるので、
今月の歌舞伎座は追善公演で、二人の息子が大きな役に挑戦している。
そして、助六の仁左衛門、静御前の玉三郞など、
大御所達も追善興行を華々しく盛りたてようと気を吐いている。
 
今日、映画で観たのは『法界坊』という演目だが、
こちらは来月の歌舞伎座では、やはり七回忌の追善ということで、
法界坊を猿之助、脇を若手で固めて、
勘三郎の代表作を今後も継承していこうという姿勢を見せている。
 
映画に残した『法界坊』は平成20年11月の平成中村座における公演。
勘三郎53歳、亡くなる4年前の作品ということになる。
 
平成中村座は歌舞伎座とは違って、昔の芝居小屋を模した作りで、
収容人数は800名。
歌舞伎座が1600名だから、半分の大きさしかない。
 
しかし、その分、お客さんと役者の距離が近く、
四国の金丸座がその大きさで、私も客として体験したことがあるが、
芝居を役者と観客が一体になって作り上げるような臨場感がある。
 
『法界坊』の勘三郎は正に昔の芝居小屋に出ている役者そのもので、
時には2階の客席から登場し、
また、通路に降りていっては客いじりをし、
舞台や花道から客に声をかけて、
会場中を芝居に巻き込んでいく。
 
軽妙なトークで映画なのに、爆笑を誘い、
かと思えば、歌舞伎の様式に則った見得をきったり、セリフ回しがあったりと、
変幻自在、縦横無碍とは彼のことをいうのだと思った。
 
他にも
男どもの取り合いになるおくみに中村扇雀、手代要助の勘太郎、
いいなずけ野分姫の七之助など、
10年前にはまだまだ若くて父親の後を必死に追っている二人の息子達が
初々しかった。
 
また、平成中村座ならではの役者として、
歌舞伎役者ではない笹野高史が出ているのだが、
これが本当に可笑しくて、
彼は平成中村座には必要欠くべからずの役者である。
 
勘三郎がやりたかった面白い歌舞伎を、演出の串田和美が具現化し、
淺草の浅草寺の裏手の敷地に小屋まで建てて実現した舞台。
 
最後の最後に観客の度肝を抜く演出が待っていて、
豪華絢爛に桜が舞い散る中、大見得を切った勘三郎が
舞台中央から観客を睥睨する。
 
よもやこの4年後に命が尽きるとも知らず、
絶頂期を迎えた勘三郎は舞台にひとつの答えを出し、
万雷の拍手は鳴り止むことがなかった。
 
映画館で声を出して何度も笑い、
芸の達者さに呆れ、そして、感嘆した。
 
悔やんでも仕方のないことだが、
同じ時代に生きていたことを歓び、
来週の月曜日には追善公演に足を運ぼうと思っている。
 
昨日は樹木希林、今日は中村勘三郎。
 
ふたりの素晴らしい役者は今は鬼門に入ってしまったけれど、
映画という形で再会できて本当によかった。
 
そして、違う意味で、それぞれの映画には学びがあり、気づきがあった。
改めて、今ここにあることに感謝して、
日日を大切に生きていこうと思ったのである。

2018年10月14日日曜日

『日日是好日』を味わう

 
 


昨日から始まった樹木希林と黒木華主演の『日日是好日』を観に行った。
 
表千家茶道の先生のところに入門した著者・森下典子の体験談をまとめた本の
映画化だ。
 
典子役は黒木華。
武田先生役は樹木希林。
 
舞台のほとんどは武田先生のお宅のお茶室で、
入門したての20歳の典子と親戚の美智子が、
割り稽古といって、初めてお茶を習う人が覚えるふくささばきや
茶巾のたたみ方を見よう見まねでやってみるところから映画は始まる。
 
実はこの映画のお茶の流儀は表千家なので、私も同じだ。
しかも、入門したのも典子と同じ大学生の時なので、
映画を観ながら、一挙に当時のことが思い出された。
 
自分の場合は、着物着たさと、200年以上の伝統美に憧れての入門だったが、
典子はご近所のただ者ではない風情の武田さんが、お茶の先生と知って、
母親のススメと美智子の「一緒にやろうよ」の言葉に
背中を押されての入門だった。
 
最初は非日常の空間に身を置き、
観るもの聞くものすべてが初めてでキョロキョロしているが、
理屈で考えたり、頭で理解しようとせずに、
お稽古に数、通って、何度も所作を繰り返す内に、
ふと何かが身につき、自然に手が動くようになる。
 
年月を経て、
その間に主人公の典子は若い女性として、苦い想いや後悔もいくつかした。
周囲をとりまく人達も変化した。
 
季節は移ろい、春が来て桜が咲き、
そして、散った後には風薫る五月。
6月ともなれば、雨が降り、うっとうしい毎日が続く。
暑い夏を凌いだ後には、秋が訪れ、
木々の葉が赤く染まり、風がひんやりしたことに気づく。
やがて、冬が到来し、茶室の窓ガラスの向こうにしんしんと降る雪が、
庭に積もっていく。
 
四季の移ろいの中で、
当たり前のことや小さなことがしみじみと感じられ、
どんな季節も味わい深く、愛おしく思う。
 
お茶のお稽古に励む内に、
典子が気づいた『日日是好日』
どんな日も良き日という意味に、気づけた喜びがひたひたと伝わって来る。
 
樹木希林は、昨年秋にこの映画を収録していたとき
確実に自分の死を意識していたと思う。
 
そして、死にゆくことを受け止め、飲み込み、
味わっていたのではないだろうか。
 
幸い、この武田先生という役のセリフを借りて、
「人生とはこういうもの」ということを残された私達に発信出来、
最後にいい役ができたと喜んでいる気がした。
 
「私は自分を使い切って死にたい」と言っていたそうだが、
正にこの役で上手に使い切ったのではないか、
そんな風に感じた。
 
封切り2日目とあって、
駅前の映画館の1番大きな会場はほぼ満席、
老若男女入り交じっていたけど、
上映中の100分はしわぶきひとつない静かな時間が過ぎていった。
 
お茶を知っている人も知らない人もいただろうけど、
みんな映画の茶道の世界に引き込まれ、
耳を澄ませ、心を開いて、何かを感じ取ろうとしていたのかもしれない。
 
私としては、自分が40年来好きで続けているお茶のお稽古を、
改めてやってきてよかったと思ったし、
私にとってこれからも必要なものだと確認出来た。
 
ひたすらお茶を点てるシーンばかりでつまらない映画だと思う人は思う人、
 
疑似体験でもいいから、
この映画の中で、一緒にお茶室に身を置き、一服のお茶を点て、
また、人の点てたお茶をいただくとき、
利休の『一期一会』の意味を想い、
日日を丁寧に生きなければと感じてもらえれば、この映画の本望だろう。
 
あの映画館の静けさは
それぞれがそんな映画のメッセージを味わっているようだった。
 
私も毎日の出来事、刻々と変わる季節、
嬉しかったり悲しかったり、怒ったり笑ったりのすべてを受け入れ、
楽しみ、
噛みしめて味わいながら生きていこうと思う。
 
 
 
 


2018年10月6日土曜日

石田イズム満載 『石田組』コンサート

 
 
 
夏のような陽気の三連休初日。
 
みなとみらい大ホールに『石田組』を聴きに行った。
 
石田組とはヴァイオリニスト石田泰尚氏をリーダーとする
13人の弦楽アンサンブルである。
 
構成はヴォイオリンが石田様を含め6名。
ヴィオラ3名、チェロ3名、コントラバス1名の総勢13名の弦楽器奏者ばかり。
 
どのメンバーもそれぞれソロで優秀な経歴を持ち、
各分野で活躍している面々だが、
ひとくちでいうと石田さんのお誘いで集まってきた石田信奉者ということになる。
 
最初は石田組は「硬派弦楽アンサンブル」と称しているように、
男ばかりの集団で、主にクラシック曲を演奏し、
弦楽器の魅力を発信しようとするグループだったと思う。
 
それが、いつのまにか、どんどん石田様のやりたい放題、
「弦楽器でこんな曲もこなせます」
「弦楽器にはこんな奏法もあります」
「編曲で弦楽器の魅力を最大限にお聴かせします」
みたいなグループになっていた。
 
まず、ビジュアルは大事ということで、
1回のコンサート中にお着替えが3回。
 
最初のドレスコードは、全員、黒いスーツに黒いシャツ、
細めのネクタイの色や柄は自由。
 
休憩を挟んで
後半最初のドレスコードは黒いズボンに白黒のボーダーTシャツ。
縞の幅が細い、中ぐらい、太い、極太まであって、
どういう風に決めたか、メンバー各自違う幅の縞々のTシャツだ。
 
さっきまで黒ずくめだったメンバーが大きなボーダーシャツを着て、
舞台に登場したときは、
そのあまりに奇抜な衣装に会場中、失笑の渦。
 
特に組長石田様はダボダボの白黒太縞シャツだったので、
どうみても監修された犯人という印象だ。
 
でもって、演奏した曲が、前半はクラシックだったのに、
急にディープ・パープルだ、キング・クリムゾンだのと、
クラシックから離れたものだから、
その幅の広さ、編曲の素晴らしさ、演奏の秀逸さにビックリ。
 
しかも、ディープ・パープルの「スピード・キング」の後に
一度、全員舞台袖に引っ込んだかと思ったら、
次は胸に大きく金色の文字で「石田組」とプリントした黒いTシャツを着て、
再登場。
 
もはや、観客は石田様とその子分達の遊び心にウキウキ、ワクワク。
大喜びだ。
 
更に最後にはどこで買ったか仕立てたか、
そんな派手なブラウス見たことないというような柄物のロングブラウスを
石田様だけが羽織って、再々登場し、
観客の大喜びもピークに。
 
もちろん、ビジュアルだけでなく、演奏内容も多岐にわたり、 
ピチカート奏法だけの曲、
もしくは、ピチカートだけの演奏に編曲されたのかもしれない曲や、
「津軽海峡冬景色」弦楽器バージョンなど、
男どもが背中を丸めてぴちぴちピチカートをする様や、
演歌をどうどうクラシック調で奏であげる様を、
私達は驚きをもって堪能した。
 
みなとみらい大ホールを埋め尽くした観客を大いに沸かせ、
弦楽器の魅力に酔わせ、
コンサートは幕を閉じた。
 
つい先日も関内のライブハウスで、目の前で観たばかりの石田様が、
今日は遠くにいて、ひときわ大きく輝いて見えた。
 
組頭・石田泰尚、ここにあり。
 
ヴァイオリン1本で組を仕切る男。
 
その細身の体と強面の顔で何をやらかすのか、
今後も目が離せない魅力的な人である。

2018年10月2日火曜日

最後の『版17展』 始まる

 
 
 
 
 
 
台風一過の10月1日月曜日。
 
25回目を迎えた『版17展』が始まった。
場所は銀座2丁目ショパールの入っているビル9階、
INOAC銀座並木通りギャラリー。
 
ここでするのは3回目。
 
しかし、諸般の事情があって、『版17展』は今回をもって解散する。
 
25回もグループ展を存続させるのは、本当に難しいことだし、
とりわけ、海外展にも精力的に取り組み、
パリ、リュブリアナ、プラハ、台北、沖縄?、クロアチアなど、
東京や横浜以外の場所で開催することの大変さを思えば、
凄く頑張ってきたグループだと思う。
 
構成メンバーが日本の版画界を牽引するメンバーだったこともあり、
その人脈とネットワーク、政治力に長けた人物のお陰で、
諸外国との交流や海外展が叶ってきたのだ。
 
しかし、年月が経ち、
会の発起人である由木礼先生はお亡くなりになり、
次に会長を接いだS先生のところは奥様の病状が悪化し、目が放せない。
現在の会長が精力的に世界展開してくれたけど、
会長そのものが中国中心に軸足が移ってしまい、
まとめ役が出来ない状態になってしまった。
 
それに誰もが年をとり、
IT関連がまったく駄目な数名を抱え、
役割分担しようにもうまくいかない会の機構など、
誰か数名の手弁当で頑張るには、
時間も体力も気力もないというのが本当のところかもしれない。
 
夕べはそんな会のオープニングパーティ。
ギャラリートークと銘打って、
作家がひとりずつ、自作について語った。
 
13人ほどの誰ひとりとして、版17についての思い出や思いは語らず、
ひたすら自作についてのややこしい説明が続いた。
 
最後の数名というところで順番が回ってきた。
 
私は自作を語る前に、自分にとっての版17はという内容で、
初参加の時、三渓園の燈明寺という場所に合わせて、
作品を風呂先仕立てにし、連日、着物で通ってお茶を点てるという
パフォーマンスをしたことを話した。
 
その2年後のチェコのプラハ展の時は、
着物で木版の摺りをするというパフォーマンスをしたりと、
私は版17で着物を着ることが多かった。
 
「なので、最後の今日も着物を着てきました」と挨拶した。
 
その話の後に、作品についても少し触れた。
 
昨年6月、初孫が生まれ、
自分の生んだ娘が、更に娘を産み、
世代が徐々に移っていくということをしみじみ感じたという話をした。
 
17名中14名が男性で、残り3名の女性作家の内、
「ばぁば」になったのは私だけ。
他の2名は子どもは生まなかった女性達だ。
 
私以外のどの作家も、作品のコンセプトは理屈っぽく、
よくいえば哲学的、悪くいえば、自己満足的。
たぶん、会場のお客さんのほとんどが
よくわからないという感想を持ったと思う。
 
しかし、私の作品の重なったたくさんの時計草は時間の経過や、
世代の違いなどを表していて、
「私は今、この鮮やかな色の層の端っこあたりで、
もうすぐモノトーンの層になる手前でジタバタしているところ」と説明し、
温かな笑いと拍手をいただいた。
 
「あのたくさんの花には意味があったんだね」と
会場で隣の人にささやいた男性作家の声が聞こえた。
 
男性の評論家や年配の女性達も盛んにうんうんと頷いている。
 
版画家というのはというか、
芸術家の世界は昔と大差なく男性優位社会だが、
「そんな理屈をこねくりまわして何がおもしろいの」と内心、思っていた、
会への違和感みたいなものが、
話し終わってスルスルと解けていくような感覚を覚えた。
 
版17がこれにて終了してしまう寂しさと、
もったいないという気持ち、
どこか男どもの中で居場所がない感じを卒業できる安堵感が、
ない交ぜになってこみ上がってくる。
 
これから12日までの会期中、
また何回か会場に通って、
静かにこの展覧会とメンバー、会の思い出などに想いを馳せよう。
 
人生もゆっくり時が移ろい、
世代が変わり、
生と死が行き交う。
 
そんなひとつの変化を穏やかに受け止めようと思うのだ。