千秋楽の前日、ようやく八月納涼歌舞伎に行って来た。
観たのは第3部。
玉三郞の「新版 雪之丞変化」だ。
歌舞伎好きの私が、歌舞伎に通い出して約50年。
きっかけは「板東玉三郞」の出現である。
歌舞伎界に世にも美しい女形役者がデビューした時、
母の友人であった踊りのお師匠さんをしていたU子さんが、
好きなら連れて行ってあげると言って、
高校生の私を歌舞伎座に誘ってくれた。
歌舞伎は私にとって難解で敷居の高い遠い世界だったが、
玉三郞丈の気高くも可憐な美しさに魅了され、
次第にのめり込んでいった。
その美しさは三島由紀夫をして、
「この世にこんなに美しいものがあったのか」と言わしめたほど。
以来、板東玉三郞が歌舞伎役者として演じたもの、
現代劇の舞台で演じたもの、
踊り手として舞ったもの、
シネマ歌舞伎や、ある演目の役そのものについて語ったものなど、
折々にその姿を観てきた。
今回の「新版 雪之丞変化」はその集大成ともいうべき舞台だった。
8月の歌舞伎座は3部構成なので、
夜の部は「雪之丞変化」の1本のみの上演だった。
「雪之丞変化」そのものは歌舞伎はもちろん、
映画化や演劇化され、
多くの役者が雪之丞を演じてきた。
しかし、今回は演出家・板東玉三郞が、
歌舞伎座にかける演目としては
非常に大胆な試みを多用し、観るものを驚かせる舞台を作り上げた。
先ず、大きなスクリーンと小さなスクリーンを用いて、
映像を取り込んだ。
映像には過去に玉三郞が演じた場面が数多く映し出され、
彼が女形役者としてどれだけ多くの大役を演じてきたが分かる。
その演出は、シネマ歌舞伎など、
あまたの歌舞伎の舞台をスクリーンに残してきた経験が活かされている。
また、役者は主に3人しか出てこないのに、
中車丈がその卓越した演技力で、5役を演じ分けている。
もちろん「雪之丞」は玉三郞丈が演じているのだが、
役者雪之丞の先輩役者として、
「秋空星三郎」を中村七之助丈が演じていて、
そこに先輩後輩、師匠と弟子の倒置の関係が舞台に生まれ、
大変面白かった。
つまり、実際には七之助は次代を担う女方役者として、
玉三郞に教えを請う立場にある。
それを逆手に取って、
舞台では七之助が玉三郞の先輩という設定になることで、
事情を知っている観客には、
セリフにおかしみが生まれるのだ。
今までの名演や歌舞伎の有名な役どころ
自分がやりたい役について話すふたりのシーンは本当に秀逸で、
七之助の亡き父・勘三郎のこととわかるセリフや、
スクリーンに映し出される数々の映像が、
長いこと歌舞伎を観、玉三郞を追っかけてきた身には、
懐かしさで胸が詰まるような情景だった。
そして、最後に親の復讐として仇を討つシーンでは、
演者に同じ顔のお面を付けさせることで、個を消し去り、
まるでコンテンポラリー・ダンスのような振り付けで、
象徴的な表現に昇華させてみせた。
この演出も、歌舞伎のみならず、
ストレートプレイにも出演し、
あらゆるジャンルの演劇を研究している玉三郞ならではの表現だと思った。
更に最後の最後は舞踊家・坂東玉三郞として、
お供の踊り手を大勢引き連れての「舞踊」だった。
舞台背景を満開の桜で埋め尽くし、
奥のお囃子と謳い方衆は桜の絵柄のかみしもをまとって、
思わず、わ~っと声が出る明るさの中、
歌舞伎らしい華やかさで舞台を終えた。
人間国宝・板東玉三郞は
歌舞伎役者の最高峰としての人間国宝なのではなく、
どこまでもアグレッシブに舞台というものを追求する求道者として、
まだまだ道を究めていくに違いない。
それを示唆するようなセリフを
雪之丞と土部三斎の問答に盛り込んでいた。
道半ばにして亡くなったかのように思われた
七之助演じる秋空星三郎が、死に際になぜ微笑むことが出来たのか。
「それは何かこの先の道を見つけたからに違いあるまい」と。
何か自分の志す道に精進すれば、
おのずと道は拓け、
進むべき道が見えてくる。
そこに一生懸命でありさえすれば、
死をも受け入れることが出来るのだ。
そう私は解釈した。
それは舞台にいる玉三郞・七之助・中車に留まらず、
観るものひとりひとりの胸に重く静かに届き、
染み渡っていったに違いない。
歌舞伎鑑賞歴50年の私にも、
様々な思い出がよみがえり、
歌舞伎に限らず、自らの人生と照らし合わせて、
含蓄のあるシーンだったなと感じ入った。
ひとりの舞台人としての板東玉三郞が、
伝統歌舞伎にリスペクトした上で、
新たな試みで演出してみせた「新版 雪之丞変化」
歌舞伎でもなく、スーパー歌舞伎でもなく、
かといってストレートプレイでもない、
総合芸術として、格調高い舞台を作り上げた。
その場に居合わすことが出来た幸せを享受した一夜だった。
ありがとうございました、玉三郞様。