大崎駅前にある品川区立のO美術館で開催されている
『中林忠良銅版画展』に行ってきた。
中林忠良氏は私の芸大時代の恩師である。
芸大の美術学部油画科に在籍していた私は
3年になる時、
研究室を版画に変えた。
その時の銅版画の講師が中林さんである。
当時、私は数年浪人をしていたので23歳。
中林さんは39か40歳ぐらいだったと思う。
大学の3年から大学院生という、
人生のもっとも輝かしい4年間を、
同じ空間で過ごした、
言わば作家同士で、
先生と学生という感覚はなく、
お互い、さん付けで呼び合うような間柄だった。
芸大の版画研究室は1学年が6~7名なので、
先生と学生が全員合わせても30数名の家族的な所帯で、
自分の作品のテーマを模索し、制作するという観点で言えば、
皆,似たり寄ったり。
作家同士として切磋琢磨する仲間だった。
もちろん、経験値に差はあるので、
学ぶところは多かったが、
作家としての先輩と後輩といった感じだった。
そこが芸術大学と他の大学との違いかもしれない。
その後、中林さんは助教授から教授、
今は名誉教授になり、
いくつかの勲章も授与されているような大先生だが・・・。
今回の展覧会は
中林さんが品川の大井町生まれだということで、
こじつけたかのように
この地を盛り上げる記念行事の一環として
白羽の矢がたったようで、
自己紹介文にはそのあたりの戸惑いが伺える。
しかし、行ってみれば、
かなり大がかりな展覧会で、
まだご存命なのに、ほぼ大回顧展の様相で、
作品は極初期のものから2019年までの100数点、
版画のプレス機や道具一式の展示、
作家の創作風景のビデオ放映、
Tシャツやクリアファイルなどのグッズ制作販売、
展覧会のカタログの制作販売と、
大盤振る舞いだ。
会場手前のプレス機や道具類を
懐かしい気持ちで眺め、
若き日の作品群を鑑賞した。
制作年と絵を見れば、
中林さんと同じ空間にいた頃の作品と、
その前とその後の作品に分かれる。
当時の展覧会の壁に掛けられていた作品群を見ていると、
学生時代のいろいろなことがよみがえってくる。
どんなコンセプトでこの作品を創ったか尋ねたり、
「誰のために創っているというような相手はいますか?
制作は自分のためですか?」などと質問したために、
困った顔をした中林さんの顔が
ふいに思い出された。
銅版画は制作過程で「腐食」という行程をふむ。
ニードルという針のような鋭利な刃物で、
銅版を引っ掻いて描写した後、
塩化第二鉄や希硝酸などの溶液のバットに
版をつけ込んで、
自分の思い描いた線の太さになるまで
腐食させるのだ。
「すべて腐らないものはない」
これが彼の作品コンセプトに通じており、
彼の人生にも通じている概念だ。
作品群を観て廻っていると
自動放映されているビデオの音声が聞こえてきた。
もの静かで落ちついた懐かしい声。
作品の制作過程を丁寧に映像で示しながら、
説明を加えて、紹介しているビデオ映像だ。
中林さんは卓越した言語表現力を持っていて、
制作工程の説明であっても、
時に文学的な表現を用いて、
銅版画の奥深さと制作の煩雑さを紹介していく。
大画面の前に置いてあるいくつかの椅子のひとつに腰かけ、
映像を見ることにした。
2019年の今日、中林さんは82歳のご高齢になっていた。
風貌もポスターにあるとおり、
白髪ですっかりお歳を召したといわざるを得ない。
ところが、画面に現れた中林さんは
1986年、49歳の時の姿だった。
町田の版画美術館の要請で制作した
版画の制作風景のビデオだったのである。
その姿は芸大の版画研究室で一緒に制作したり、
銀座の展覧会を見に行ったり、
みんなで飲み会に行ったり、
芸術祭で一緒に踊ったりした頃と、
ほとんど変わらない若き日の姿だった。
思いがけない展開に
私の鼓動は一気に速くなり、
懐かしさで胸がキュッとなった。
思い出すだけで涙が出そうなキラキラした青春の日々が
よみがえってきた。
あれから、まだ、私も何とか制作し続けている。
大してコンセプトも変わらず、
制作のスキルは多少向上したと思うが、
作品に向かう姿勢も同じ気がする。
しかし、年月は残酷だ。
体のあちこちの痛みや集中力や持続力の低下、
老眼との戦い、
ビジュアルの劣化など、
得たものもあるが、
失ったものも多い。
「すべて腐らないものはない」
と彼はいう。
たしかに肉体でさえ、劣化して、
やがて腐る日が来る。
しかし、中林さんの若き日の映像を見ながら、
私は思った。
思い出は決して腐らない。
むしろ、汚いものは忘れ、そぎ落とされて、
美しいものとして、今、胸中にある。
そして、それを誰も浸食することは出来ないと。
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