2022年3月29日火曜日

桜満開 花曇り

 



















横浜の桜も満開を迎えた。
昨日に比べ、気温はぐっと低く、
曇り空なので、
いわゆる『花曇り』というやつである。

他にも
『花冷え』なんていう美しい言葉もある。
単に冷え込んでいて、
季節が冬に逆戻りしているだけだが、
「春は三寒四温で季節が一歩ずつ進む」
なんて、しゃれおつな言い方もある。

ともあれ、自宅から最寄り駅までの
道すがらでさえ、
桜や源平桃などが満開を迎え、
この世の春とばかり咲き誇っている。

今日は2週間ぶりのばぁばご飯の日。

リクエストは桜とは何ら関係なく、
孫と娘の食べたいものが注文されたので、
言われるがままに作ってきた。

メインは
「鶏モモのカレークリームソース」

以前、自分で持ち込んだメニューなのに、
作り方を忘れたので、
夕べ、自宅で作って予行演習した。

簡単な割に本格的なフレンチみたいな味で、
娘が久しぶりに食べたかったというのも
うなずける。

他は「とんかつ」「けんちん汁」
「ぶり照り」「れんこんのきんぴら」
「春雨サラダ」「ほうれん草の胡麻和え」
「ブロッコリーの卵のせ」
「かぼちゃの煮物」
「かぼちゃのクリームスープ」
計10品。

カレークリームソース以外、
すべて孫1号2号の大好物だ。

桜の満開とは何の関係もないけど、
これでお腹が満腹になるなら、
ばぁば冥利に尽きるというもの。

孫2号は最近、1歳半検診で
肥満でひっかかって
ダイエット中なのだが、
これだけたくさんの食材が食べられるなら、
栄養バランスは合格点だ。

ニコニコ食べて、
快食快便
これに勝るものはない。

ちなみに持ち込みの和菓子の銘は
「桜衣」

ここだけは桜にちなんで
いとおかし。







































2022年3月26日土曜日

利休忌前日の憂うつ

 













明日、お茶のお稽古では
「利休忌」という行事が行われる。

その名の通り、茶道の開祖である利休さんの
命日にご供養のお茶を捧げ、
更には普段できないお免状ものの
茶道の勉強会をやってみようという催しである。

2年前の利休忌を最後に
世界中がコロナ禍に見舞われ、
お稽古そのものが相当な月数お休みになり、
今でも感染予防に神経をとがらせ、
お稽古も粛々と行われている。

したがって、この2年間は
お社中のみんなが一堂に介することもなくなり、
初釜や炉開きなどの集まりは中止になり、
ようやく今年の初釜も
水曜組と土曜日組とに分かれて
何とか工夫して行うという有り様だった。

明日の利休忌はそうした2年間の状況から
言えば、
初めての全員参加のお稽古ということになる。

午前と午後とで盛りだくさんの内容が
組まれていて、
まずは利休さんにご供養のお茶とうを捧げ、
次に「廻り炭」
お昼を挟んで「廻り花」と「花月」

いずれも5名ほどがそれぞれ参加して、
ゲームのように順番にお点前を行いながら、
茶道の炭点前、
茶道のお花の生け方、
茶道の薄茶点前を学ぶ勉強会という趣向だ。

我がお社中の参加者は8名なので、
1度に全員が参加はできないので、
5名ずつ、
その経験や実力などを加味して、
先生がどのお稽古に誰をどこに配置するか決め、
告知があるので、
あらかじめ予習する時間が
与えられている。

今回、わたしは
「廻り炭」の亭主と
「花月」の1組目の3客が割り振られた。

何と言っても、
ヤバいのは「廻り炭」の亭主である。

「廻り炭」は亭主がお点前座に就くと
まず、炉にかかっている釜を畳に上げ、
炉の中の炭をとりあえず全部引き上げ、
炉の中をきれいにお掃除したら、
お炭を大量につぎ、お客様に
「お炭をおつぎください」と所望して、
順番にいろいろな炭のつぎ方をしながら
お炭点前を勉強するというものだ。

もちろんすべては作法に則って
行われるわけで…。

みんなが炭をついで2巡したら、
亭主の番にまた炭を全部引き上げ、
またまた炉を中をきれいにし、
灰を撒き、新たに炭をつぎ、
お香をたき、香合を拝見に出し、
釜を炉に戻すという流れなのだが、
この長い長い長~い流れを
すべて亭主が仕切らなければならないのだ。

先生から「あなたが「廻り炭」の亭主ね」と
いとも簡単に言われたのが10日ほど前、
前回のお稽古の日だった。

過去に1回
「廻り炭」を観たことがあるだけの私は、
事の重大さを全くわからず、
「はい、わかりました」などと安請け合い。

帰宅して「どれどれ」と昔、刊行された
分厚い教本をめくってみたら、
そのやることの多さと煩雑さに
めまいがした。

そもそも何を言っているのか、
どういう状態なのか、
まるでフランス語の小説でも読むかの如く
ちんぷんかんぷんだ。

とりあえず、自分のノートに
絵つきで順番を書き出してみたが、
ノートの枚数は5ページにもなり、
ダイジェストで書き出したものも
まったくダイジェストとは
呼べない代物になってしまった。

受験勉強並みに
毎日、眺めたり、イメージしたけど、
はてさて明日の首尾はいかに。

もうひとつの「花月」も
「花月百篇おぼろ月」という言葉があるほど
難解なゲームなので、
こちらは天から諦めて
全く素人という体で、
指示待ち世代の代表を決め込むことにした。

桜も開花し、
明日あたり見頃を迎えるかと、
着物は作家ものの紫の地に桜の柄、
帯は辻が花と勢い込んではみたものの、
受験に臨む学生のように
今夜は眠れそうにない。

つけ焼き刃の亭主に幸あれ!
幸運を祈る!!






















2022年3月20日日曜日

友人の命日に想う

 











11年前の3月20日、
ダンナの親友O氏が亡くなった。

11年前の3月と言えば、
誰もが覚えている東日本大震災のあった年。
2011年の3月11日に震災は起こり、
20日はまだ世の中が騒然としていた。

そんな中、21日の朝に
ダンナのケータイに電話があり、
息子さんからその死は知らされた。

O氏はダンナの親友で
会社の同期だったし、
初めての海外転勤の任地・香港でご一緒したので、
そのおつきあいは家族ぐるみで続いた。

新婚間もなく香港に転勤になった私達と
香港で日本から奥さんを迎い入れたO家は
最初の子どもも同学年だし、
それぞれ2人目を香港の病院で産んだりして、
正に戦友といってもいいような関係だった。

その後、任地は一緒になることはなかったが、
日本に落ち着いてからも
家族ぐるみのおつきあいは今でも続いており、
ただ、O氏だけが
11年前の今日、忽然と天国に旅立ってしまった。

O氏亡き後、
彼が参加していた地元のヨットチームに
まるでO氏の代わりのように
ダンナは参加することになった。

今日はそのお仲間とO氏のお墓参りに行くと
ダンナは朝早くから出かけて行った。
明日はヨットで海に出るからと
泊りがけの支度だった。

私は1日、彫り台の前に座って、
新作の彫りの作業にいそしんだ。

彫りをしている間は手は動かしているが、
物思いにふけったり、考え事をしたりする
静かな時間が流れていく。

フジコ・ヘミングのピアノをBGMに、
11年前のことがまるで昨日のことのように
思い出されてきた。

震災で電気がまともについていないし、
スーパーからもものが消えた。
テレビでは津波と原発事故の映像しか映していない。

それなのにO氏のお葬儀は大層立派で、
とても多くの人が喪服に身を包み、
葬儀に参列した。

参列者は人目もはばからず
目を真っ赤に泣きはらして、
棺の中のO氏に声をかけ、
齢60のその早すぎる死を悼んだ。

私たちは親交が深かったので、
お骨上げの場所まで一緒に行くことになり、
春の空に煙突の煙が立ちのぼるのを
呆然とした思いで見つめていた。

この11年の間にはいろいろなことが起き、
その時は想像もしなかったコロナ禍に見舞われ、
昨今はロシアのウクライナ侵攻のゆくえに
戦々恐々としている。

ただ、O氏は亡くなってしまったけれど、
11年経って
今の私たちはまだ元気にしていて、
死はさほど近いものにはまだ感じられない。

当時、彼はどんな気持ちで過ごしていたのか、
お酒の量が尋常ではなかったし、
いろいろ悩ましい思いもあったと
聴いている…。

今日は彫りの作業を何時間も続けながら、
昔のことをたくさん思い出していた。

故人を思い出すことがご供養になるというなら、
私達は同じ時代を過ごしたO氏を
決して忘れないだろう。





















2022年3月15日火曜日

お茶のお稽古前日

 









火曜日はばぁばご飯、
水曜日はお茶のお稽古。

それぞれ月に3回なので、ない週もあるが、
今週は両方ともがある週だ。

火曜日の今日は
朝イチで歯医者さんの予約があったのだが、
それを済ませてそのまま電車に乗り、
娘の家へと向かった。

最近、孫2号が1歳半検診で
肥満の数値で引っかかって、
塩分と総カロリーに気を付けるよう言われたとかで、
いつにも増して減塩に気をつけながら、
リクエストの9品を作り上げた。

とにかく食べることが好きな孫2号、
孫1号もよく食べる2歳児だったが、
孫2号はそれを凌駕する食いっぷり。

見ていてもとにかく食べるのが早いので、
食事中に
「よく噛んで~」と何度声を張り上げるやら。

欲しがるものを欲しがるだけ与えると
みるみる肥満児になっちゃうと、
今日も大人と1歳半との攻防が続く。

ほんとに孫1号と孫2号の母親(娘)は
食の細い子で、
食べさせるのに苦労したので、
私と娘は
その食い意地を見て苦笑いするしかない。

そんな火曜日の夕方6時40分。
娘宅を辞して、決まった時間の電車に乗り、
地元に戻ってくる頃には
気分は明日のお茶のお稽古へとシフトする。

ホッと一息つき、
和室に向かい、
ここからは明日のお茶のお稽古の準備に入る。

お茶のお稽古のドレスコードは
一応「きもの」ということなので、
前後にカウンセリング等が入っていない時は
毎回、きものを着て北鎌倉に向かう。

ことほど左様に
火曜日の1日と水曜日の1日では
まるで雰囲気が違うので、
どこかで鮮やかにスイッチを切り替えることが
必要だ。

さて、3月の先生のお茶室のしつらえは
「裏甲釜」というお釜を中心に、
お棚は「白木の丸卓」
お軸は「桃花萬家宴」

冬の寒さがやわらぎ、
桃の花が咲き乱れ、
あちらの家こちらの家で宴が催されている。
そんな春を寿ぐコンセプトだ。
(3月2日、初回のお稽古で拝見済)

そして、明日、私は裏甲釜のお炭点前を
仰せつかっている。

いつもは濃茶と薄茶のお点前をしているので、
たまにお炭点前を振られると
当然、予習していかなければ間に合わない。

数日前から以前ノートしたものや、
教本を眺め、
イメトレはできたので、
明日の午前中にもう一度見直そうと思う。

ドレスコードのきものの組み合わせであるが、
今回は「炭」と「墨」で韻を踏み
墨流しの千鳥格子の小紋を着てくことにした。

明日も20度越えの暖かさになるというので、
明るめのブルーグレーの着物に
白っぽい袋帯なら、春らしい。

ちょうど「春霞」や「のどか」などという銘が
ぴったりくるような時期なので、
道中着は雪輪模様が霞んでいて
正に春霞という感じだ。

長じゅばんに新しい半襟を縫い付け、
着物と道中着にアイロンをかけ、
着物用の衣桁に袖を通して壁につるす。

最後にお点前で使う
お布巾と雑巾にアイロンをかけて
決まりの手順でたたむ。

お布巾と雑巾は
水屋で茶道具を拭いたり、
手をぬぐったりするものだが、
今、この時代に
布巾と雑巾にアイロンをかける人など
どこにいるだろうというような
雅な世界。

コロナ禍になって
いろいろ使いまわしや共用ができなくなり、
自前の布巾と雑巾を持っていくようになった。

自前と言っても
手の効くお社中の友人が
ちくちく手縫いで縫ってくれたお手間もの。

それを毎回持ち帰っては手洗いし、
アイロンをかけて次のお稽古に携える。

お濃茶を一椀で飲み回すのが茶道の文化なのに、
久しくそれもできなくなった。

いったいいつになったら
一座建立の元の作法で
お茶がいただけることやら。

今しばらくの辛抱かとあきらめつつ、
と同時にウクライナの惨状を見るにつけ、
お布巾にアイロンをあてる平和に
申し訳ないような心持になった。









2022年3月10日木曜日

突然の幕切れ

 



今朝は絵画教室に車で向かっていた。
教室は生麦にあるマンションの集会室なので、
自宅からは車でも50分近くかかる。

横浜市神奈川区金港町の青木橋の交差点は
道中のちょうど真ん中あたり。
そこから国道1号を川崎方面にしばらく行く。

青木橋を過ぎたあたりで、
それまでスイスイ流れていた車の流れが
急に鈍くなりだし、
5分ぐらいで完全に止まるぐらいの渋滞に
ハマってしまった。

いち早く事に気づいた車は
国道15号に逃れたようだが、
私は1号線から逃れようのない1本道に
突っ込んでしまっていた。

そこから約30分、
身動きがとれないような状態の先に
見えてきたのは、
単独で事故ったらしい、
なぜか中央分離帯の上に
横倒しになっている黒いワゴン車だった。

どうするとそんな風に20cmもある縁石の上に
真横になって乗り上げられるのか。
まるで空から降ってきたかのような
異様な光景である。

事故現場にたどり着く前に
救急車が1台、脇をすり抜けていったので、
たぶんけが人はひとりだけだと思うが、
パトカーは5~6台は到着していて、
警官がごった返していた。

絵画教室には完全に遅刻だ。

LINEで何回か連絡して
作業を進めておいてもらい、
開始時刻より40分ぐらい遅刻して
ようやく教室に到着した。

「大変でしたね」と労をねぎらう言葉の後に
いきなり生徒さんのひとりが切り出した。

「先生、こんな大変な日に申し訳ないんですけど、
今日でお稽古を辞めようと思います」と。

Tさんは絵画教室に通ってきて
17~18年ぐらいにはなるだろうか。
齢78歳になっており、
ここ数年でめっきり弱っていることは
わかっていた。

年末にもそれらしいことを言い出したが、
気を取り直して
マイペースで続けることになったばかりだ。

しかし、今日も1時間近くバスに揺られ、
その後、教室まで歩いてくる間に、
足が痛くなって座り込みたいぐらいに
なってしまったという。

彼女が辞めると
人数的に絵画教室そのものの存続が難しいことは
年末の時から分かっていたのに、
どうにも続ける気力が湧いてこないということだ。

ひとりで運転していて
ここまでひどい渋滞に巻き込まれたのは
初めてだったし、
目の前で横倒しになった事故車をみたのも
初めてだった。

当然、絵画教室に遅刻したのも
初めてのこんな日。

突然、絵画教室を閉じることになった。

思えば、美大生になった大学1年の時から
子ども絵画教室の先生を頼まれて、
絵画教室の先生業が始まった。

結婚してほどなく海外転勤になっても、
子どもが生まれて乳飲み子を抱えていても、
日本に帰国し、
東京の社宅から横浜に引っ越ししても、
ずっと続けてきた絵画教室。

子どもの教室、大人の教室、
油絵教室、水彩画教室、
木版画教室などいろいろ形態は変化したが、
かれこれ45~46年にはなろうか。

2022年3月、
あと1回のお教室をもって
私の絵画教室の先生という役どころは
その幕を閉じることになった。

ものごとには
始まりがあれば終わりがある。
それを痛感した1日だった。