2015年3月28日土曜日

桜八分咲き

 
 
今年も桜の開花が宣言され、ここ2日で気温が急上昇したせいか
昨日二~三分咲きだった桜が、一気に八分咲きくらいになった。
 
我が家のすぐ近くにある餅井坂という坂道を下ると
車の通る道の裏道的な歩道に桜が30本ほど植えられているところがある。
 
通称『桜道』(そんなところはごまんとあるだろうが・・・)と呼ばれるそこは
横浜で有名な大岡川添いの桜に比べると
本数が少ないせいと、裏道のせいで、
人通りもまばらで、ご近所さんだけの桜の穴場スポットになっている。
 
坂道の途中からは手が届きそうなところに枝があり、
今日咲いたばかりの初々しい桜の花を間近に見ることが出来るし、
裏道まで降りれば、
人通りも少なく、露天商もいない私だけの桜道を歩いて散歩を楽しめる。
 
今年はまずカメラ片手に桜道で春を感じることが出来た。
 
その後、最寄り駅の映画館で『イミテーション・ゲーム』
~エニグマと天才数学者の秘密~を観た。
 
第二次大戦中、
ドイツ軍の発信した暗号を解読するために集められたイギリス人数学者達の話。
 
その時に作られた機械が後のコンピューターだということだが、
てっきりコンピューターを作ったのはアメリカだと思っていたのでビックリ。
 
ここに書くことはできないが
ベネディクト・カンバ-バッチ演じる天才数学者の秘密も
もし、彼がイギリス人ではなくアメリカ人だったら
結末は全然違うものになっていただろうなと思う。
 
グラミー賞で最優秀主演男優賞は逃したものの、
ベネディクト・カンバ-バッチの演技は秀逸。
 
ラブストーリーとも、歴史物とも、戦争映画とも違うが
ある秀でた才能ゆえに『変わっている』男の切なくも一途な人生の物語。
 
人の人生って、生まれた時代や国、環境などに影響され、
いろいろ翻弄されてしまうことがあるんだと実感した。
 
桜の美しい日本の春に
木版画の作品を創り、発表の機会を得られるなんて、
それはとても幸せなこととなんだとあらためて思った。
 
どうか個展会場にたくさんの方が来てくださいますように。
そう願いつつ、ほおばる桜餅は実に美味しく
日本人に生まれてよかったとしみじみ思ったのである。
 

2015年3月24日火曜日

出揃った出品作品

 
 
 
個展用に創り溜めた最後の作品が摺り上がり、
いよいよ会場にどの作品をどうのように並べるのか、
レイアウトを決める作業が始まった。
 
何しろ4年分の作品なので、
自分でも出してみないと大きさや色合いを正確には思い出せないものもある。
 
私の作品は全体にカラフルなので、
お互いに相乗効果をもたらす並べ方をしないと、
ガチャガチャしてしまうので、この作業は重要だ。
 
また、作品には大きくシリーズもあるし、ストーリーもあるので、
それが混在しないよう配置して、
会場の手前と奥では少し雰囲気を変えたいという思惑もある。
 
今回の会場は個展として展示するにはかなり広い壁面のある場所だ。
だからこそ、4年もの準備期間が必要だっただけだが、
いざ、その間に創り溜めたものを全部並べようとすると
少々窮屈なことが分かってきた。
 
オブジェ作品が大きな壁の1面を全部使ってしまうこと、
版画としては大きな作品が多いことなどがその理由だ。
 
そこでいろいろ考えた挙げ句、
昨年の評論家に声をかけていただいて開いた個展に出したものは
すべてカットすることにした。
 
今回は還暦記念を謳っているので、
大きな作品は還暦関連に絞ることにしたのだ。
 
ぞろぞろと部屋中に引きずり出してきた大量の作品に役を振り、
大物俳優なのに今回は出番がないとわかったものは、
また収納庫の一番奥に戻した。
 
ちょっと残念な気もするが、
若く見えるが実は還暦を迎えたおばさん女優に、主役の座を譲ることにした。
 
脇を固める俳優陣や子役達も
真ん中に据えた大物女優を引き立てる布陣にした。
 
個展は会場で繰り広げられるひとつの物語だから、
キャラのかぶる人はいらない。
かといって、家族としての統一感も必要だ。
 
ひとり、和室でごにょごにょ独り言を言いながら、
この作業、演出家になったみたいでなかなか楽しい。
 
結局、額縁も新しく4本注文しなければならないことが分かり、
行きつけの額縁屋さんに行くと、
額縁もマットもみんな値上がりしていて、ちょっとショック。
 
3割引きしてもらっていてこの値段の高さは
一般の感覚からいって相当高いと思うだろう。
 
されど、額をつけなければ、ただの紙だしなぁ・・・。
 
材料の絵の具も和紙も値上がりしたし、
額縁よ、お前もか・・・。
 
そして、消費税が8%。
嗚呼。
 
厳しい現実にヨロヨロするけど、
それは私が還暦だから?
それとも財布が軽くなったから?
 
体重はむしろ増えているのに、世間の風はいやはや冷たい。


2015年3月18日水曜日

最後の作品 完成

 
 
4月の個展に向け、準備していた作品の最後の1点が仕上がった。
 
作品タイトルは『凜』
 
赤いグロリオサの作品『華』と対の作品だ。
もちろん対といっても、別々の作品なので、
ふたつ揃わないと意味をなさないわけではない。
 
案内状に使った『輪廻』と『還』の縮小版とでもいうような作品で
個展の場合、
お客様の手に取りやすい大きさと価格のものも創らないといけないので、
そうした下心見え見えの作品と言ってもいいだろう。
 
しかし、下心は隠せないものの、
なかなかいい出来なのではという自負もあり、
会場の目につく場所に飾ろうかなと思っている。
 
これで、平面作品23点、オブジェ3点が出揃った。
 
ここ1ヶ月半は左腕の痛みとの戦いで、
今もそれは続いているのだが、
本当に鶴の恩返しではないが、
この作品も我が身を削って制作したという感じが強い。
 
今日も左腕を使っているわけでもないのに、
ばれんを右手に持って使いだすと、左肘に冷感というか痛みがビリビリ走り、
外気温は急に温かくなったというのに、左腕にカイロをふたつも貼りつけ、
痛みをだましだまし摺り続けた。
 
前回の個展の時は直前にギックリ腰になったし、今回は神経痛。
還暦記念の個展も名実共に若くはないということを実感しながら、
なんとか終盤まででたどりついたというところだ。
 
ギリギリまで絵筆を離さないタイプの作家に比べれば
1ヶ月前に制作終了なんて、余裕のよっちゃんだとは思うが、
これから、全作品を並べて会場での配置を決めたり、
膨大な量の案内状を書いたり、額縁を注文したりと、
やるべきことはたくさん残っている。
 
それより何より、この左腕の痛みを一生のお友達にする気はないので、
何としても治すこと、それが今の課題なことは間違いない。
 
行きつけの呉服屋のおかみさんも右肘に痛みがあるとかで
「本当は右を下にして寝たいのに、それが出来なくて辛いのよ」と話していた。
 
「最近はとりあえず、あっちが痛い、こっちがかゆいといった話をしてからでないと
次の話題に移れないのは困ったもんだわね」と笑いあったが、
実際、どこかに何か故障を抱えながら毎日暮らすのはしんどい。
 
『凜』と生きる。
 
「背筋を伸ばし、すっくと前を見、自分を信じて」
そんな私の理想の生き方に
左腕の痛みは必要ないもの。


2015年3月15日日曜日

倒れても尚

 
 
 
 
5月から7月までの期間限定で『就職対策講座』という講座を受け持っている
横浜にあるパティシエ養成学校の卒業式と謝恩会に出席してきた。
 
前期に10数時間程度しか会っていない学生達だったけれど、
ちゃんと就職できているか心配だったし、
久しぶりに顔が見たかったので、出席することにしたのだが・・・。
 
まず、卒業式のひな壇に講師のひとりとして並ばされた時、
その中央にいた車いすの女性が目に飛び込んできた。
この学園の理事長=学園長の姿だった。
 
学園長はこの学園の創始者で、
小さな調理師育成学校を開校したのが45年前、
更に製菓製パン学校を設立したのが15年前、
いずれも順調に生徒数を伸ばし、
それぞれの校舎を新しく大きく建て直すなど、
その敏腕はこの世界に広く鳴り響いている。
 
しかし、目の前の車いすの老女は左半身にマヒがあるようで
斜めに体と首をかしげ、表情も乏しく、学園長の見る影もない。
 
私に限らず、ほとんどの教職員と講師、更には学生もその姿に息を飲み
ざわめきがひたひたと広がっていくのがわかる。
 
どうやら倒れてから初めて公の場に出られた様子で、
極一部の職員を除いて、学園長が倒れたことは知らされていなかったようだ。
 
その後、卒業式は何ごともなかったかのように粛々と進み、
遂に学園長挨拶の時がきた。
 
いつもは息子である校長先生のお話より、送辞や答辞の言葉より
何より説得力のあるいいご挨拶をなさり、話のうまさに定評のある学園長である。
 
しかし、目の前の学園長は介添えの女性に車いすの位置を動かしてもらい
震える右手で何とかマイクをとり、話し始めたその声は低くてか細い。
 
ただ、少しすると声にも張りが出てきて、こうおっしゃった。
「私は思いがけず2ヶ月前に病人になりましたが、
今日は皆さんの前で、皆さんより元気があるということをお話しようと思って
この場にやってまいりました」と。
 
その話しぶり、声の調子、
話せば時折よだれを拭いてもらわなければならないその様子、
どれも壮健な頃の面影さえないご様子だけれど、
身を挺して訴える「生きる気持ちの強さ」に会場中がどよめいた。
 
きっと間違いなく倒れた直後は精神的にどん底に突き落とされたであろうに
卒業式という晴れの場に自分の車いすにのった姿をさらすことで、
今から社会に出て行く若者に
「しっかり目的をもって、たくましく生きていって欲しい」と訴えたかったのだろう。
 
後から講師達は口々に
「今回の卒業生はあの学園長の姿を一生忘れないだろう」と噂した。
 
ひとりの女性がこれからは食の大切さをわかっている料理人が必要と
横浜に小さな調理師養成学校を創り、
その強い信念に基づき、多くの学生を教育し、卒業生を世に送りだしてきた。
 
本当の我が子は校長になった息子ひとりだけれど、
今日、卒業式を迎えた何百人という卒業生は、皆子どものように思っている。
 
ひとりひとりを真心込めて教育し、
就職の心配をし、
何かあればいつでも母校に帰ってきて相談しなさいと待ってくれている。
 
どこまでそれが学生達に届いているかは疑問だと思っていたが、
さすがに今日の学園長の姿と、
強い口調でありながら、
時折涙がまじるその声と話はかれらの胸に響いたに違いない。
 
今、生きるために必死に辛いリハビリに取り組んでいるという学園長の言葉に
私も勇気をもらって、
左腕の神経痛がどうしたなんて泣き言は言うまいと気持ちを立て直した。
 
信念をもって生きる。
 
ただ、ひたすらに生きる。
 
一生懸命に生きる。
 
それが人に与えられた使命なんだろう、きっと。
 
そんなことを感じながら、
今週は最後の本摺りに取りかかろうと思う。


2015年3月9日月曜日

『アメリカンスナイパー』にみる銃社会の闇

 
今、話題の映画『アメリカン・スナイパー』を長女と観てきた。
 
イラク戦争の時に従軍した優秀な狙撃兵だった男が
除隊後、PTSDにかかり苦しみから立ち直る話だと聞いていたので
心理カウンセラーとしては興味津々という感じで観に行ったのだが・・・。
 
主人公のカイルは実在の人物なのだが、
実はこの映画ができあがる少し前、
やはりイラク戦争から帰還後に心を病んでしまった男をケアしようとして、
出掛けた先で、その男に銃で撃たれ死んでしまった。
 
その実写シーンが映画の最後に流れ、
エンドロールになるのだが、
映画評にはなかっことが頭に浮かんで、いろいろ考えさせられてしまった。
 
戦争にいった兵士が、帰還後PTSDを発症するというのは、
ベトナム戦争の時も、イラク戦争の時も言われており、
アメリカ社会の抱える大きな問題になっている。
 
アメリカ社会は言わずと知れた銃社会で
一般的な人でも、家に護身用の拳銃が家にあるのは当たり前らしいが、
日本人の私たちには想像すらできないことだ。

アメリカの普通の生活における
銃にまつわる悲劇は枚挙にいとまがないのは日本人も知っている。

しかし、 
日本人で本物の拳銃の引き金を引いたことのある人はどのぐらいいるだろう。
一生かかって、一度も持ったことさえないという人が
ほとんどなのではないだろうか。
 
ところが、映画の主人公カイルは志願して兵役につき
4回の派兵で約1000日、イラク戦争で従軍する。
 
スナイパーと呼ばれる優秀な狙撃の腕を持ち、
従軍期間中に数多くの人を狙撃し、英雄として帰国。
 
しかし、帰国した後、PTSDを発症し、
常に戦地でのさまざまな爆撃音や射撃音、負傷兵の姿などが
聞こえたり見えたりすることで、心を病んでいく。
 
妻が夫の心が戻ってこないことを心配し、あれこれ気遣うのだが、
映画では意外とあっさりPTSDは克服されたかのようなシーンになる。
 
そして、あろうことか、カイルは拳銃を片手に妻に迫り、
冗談半分に下着を取れと要求する。
 
そんなやりとりのところに幼い息子が走り込んできてふざけたりしているのだが、
拳銃が暴発でもしたらどうするのかとハラハラした。
 
それがアメリカのユーモアだとしたら、日本人の私には理解できない。
 
しかも、ちょうどそこへ元兵士の後輩がやってきて、
カイルはリフレッシュのため射撃場で2時間ぐらい練習すればスカッとするからと
ふたりは出掛けてしまう。
 
そこで、この後輩に打たれてカイルは死んでしまうのである。
 
それは映画の中の出来事ではなく、現実なわけだから、
ますます理解の度を超えてしまった。
 
拳銃で人を殺すことに罪悪感を抱いて、PTSDになったんじゃなかったのかい?
PTSDを克服した人が、悪ふざけで拳銃もって妻に迫るってどうなの?
銃を忌み嫌っていたはずの人がリフレッシュするために射撃場に行くって何?
 
しかも、そこで、あっさり銃で殺されちゃうなんて・・・。
 
同じ地球に住んで同胞のように思っているアメリカだけれど、
全然知らない国と人々だなという感じがした。
 
クリントイーストウッドよ、何だよ、最後のオチは。
そう言いたい。
 
長女とふたり、「よく分かんないね、アメリカって」と映画の感想を語り合い、
回転寿司のカウンターに座り、おいしい寿司ネタに舌鼓を打ったのであった。
「日本、平和でよかったね」といいながら・・・。


2015年3月8日日曜日

おばさんの馬脚

 
冷たい雨がそぼ降る中、三渓園で行われたお茶会に行って来た。
同じお社中でご一緒している若い友人に誘われ、
いつも同じ時間帯にお稽古している3人で出掛けることになった。
 
若い二人はお子さんを親戚に預けたり、
お子さんの予定に必要なものを準備したり、
自分のことだけ用意したり身支度すればいい訳ではないので、
日曜日の朝、キモノで出掛けようと思ったら、早起きして大変だ。
 
ひとり気楽な私でさえ、6時前には起きだして、
実家に泊まりに来ている長女の分の食事を作り置きし、
キモノに着替え、雨対策と寒さ対策を施して出掛けるのは難儀なことだ。
 
お茶会は4席の表千家のお席と点心席という構成で、
どうしても拝見したい1席にまず入ろうと、
雨でぬかるんだ広いお庭の道を小走りに進んだ。
 
寒い雨の朝だったせいか、朝イチの出足が鈍く、
何とか最初のグループに滑り込みセーフで入ることが出来、順調な滑り出し。
 
当代と先代の家元の箱書き付きお道具の数々はどれも立派なもので、
お茶室にぎゅう詰めに並んだキモノ姿のお客人は、
皆一様に感心しながら、春らしい生菓子と一服のお茶を楽しんだ。
 
席主の先生は70代後半とおぼしき上品な先生で、
立派なお道具揃えをひけらかす風もなく、
あくまでも謙虚かつ自然体でお話しなさって、好感が持てる。
 
お点前の方もお運びのお社中の方々も
皆きびきびと滑らかに動いて、最初のお席はスムーズに滞りなく進んで行く。
 
ところがその最初のお席がはね、
身仕舞いを整え、再び傘をさして雨道を次の茶室に移動したあたりから
どこからともなく人があふれだし、
廊下のそこここにおばさんの行列が出来、
それがまた時が止まったかのように動かない。
 
そうなると一見キモノを身にまとい、上品そうに繕っているおばさんも
本来の性分がでるというか、馬脚を現すというか、メッキがはがれるというか・・・。
 
とにかく、並んでいる列に割り込もうとしたり、
ひとりしかいないのに、4人分だと言い張ってお茶席の券を入手しようとしたり、
そんなもの持って入れないのに、お茶席にショールをしたまま入ろうとしたり、
ハンドバッグを持ち込もうとしたり・・・。
 
あなたのお尻の大きさでは無理があるというのに
人の上に座らんばかりに茶席に入ろうとしたりで、
おぞましい。
 
そんなおばさんの生態を間近に観察しながら、
自分も同じおばさんなことに一抹の不安を抱きつつ、
同行の若い二人と顔を見合わせた。
 
恐るべしおばさんパワーに気圧されながらも
3席の席入りを果たし、
点心もおいしく頂戴し、
2時過ぎに帰路につく頃には雨も上がり、空には薄日もさしていた。
 
どのお席も立派なお道具立てだし、
お茶会に参加している主宰者側もお客様もそのほとんどが男女ともに和服という
なんとも日本的で雅なはずのお茶会なのだが・・・。
 
雨で出足が鈍かったせいか、
雨と寒さで余分なにもつがあって身動きがもたついたせいか、
なんだかざわついた印象のお茶会であった。
 
きれいなおべべを着ていても、
心の余裕がなければ、
所作が美しく保てないとは寂しい限り。
 
人の振り見て我が振り直せと反省しつつ、
「4席中、3席入いれて、点心もいただけたから、元はとったわね」と
思っているようでは
五十歩百歩とはこのことか・・・。

2015年3月4日水曜日

『サラバ!』上巻 購読中


 
外は雨上がりで気温が急上昇、花粉の飛散も大量投与。
こんな日はなるべく家にいて読書でもしていようと
昨日、今話題の書西加奈子の『サラバ!』を買って帰った。
 
夕べから読み始めたのだが、これがとっても面白い。
 
帯には『これは、私にとってとてもだいじな小説だ』角田光代
『今、いちばんに読み返したい心の一冊』椎名林檎とあるが、
今イチ何を意味しているかピンとこない。
 
更には
ひとりの男の人生は、
やがて誰も見たこともない軌跡を描いて、
地に墜ちていく。
だが、いまはまだ、その少し手前。
とあるから、下巻まで進むと『僕』の人生は転落していくのだろう。
 
物語は一人称で書かれている『僕』が、
逆子だったため、左足から生まれてくるところに始まる。
 
『僕』は両親がイランに海外赴任中、
姉のいる弟として生を受ける。
 
そして、まだ自意識が芽生える前に帰国し、日本の幼稚園生活を経験し、
再び、小学校の低学年で今度はギリシャに転勤族の家族として移り住む。
 
三島由紀夫は自分がつかった産湯のたらいに差し込んだ光の情景を
まざまざと覚えていると言うが、
『僕』も左足からおずおずとこの世に出てきて、人生が始まったところから
鮮明に描かれている。
 
この物語は
海外転勤族の家族の第二子に生まれた『僕』の視点で書かれているが、
何を隠そう、私も香港、日本、シンガポールと転勤で居住地を変えながら、
香港で第二子を出産し、異国のメイドさんに助けてもらって、
子育てをしてきた。
 
そういう意味で、
この物語の作者の経験と観察力に基づかなければ書けない内容に
大いに共感し、懐かしさを禁じえないのである。
 
海外、しかも、イスラム圏の国に住むということは、
旅行に行くだけでは想像もつかない出来事やものの考え方に出くわすもので、
私の香港とシンガポールなんてまだまだ手ぬるいのだと思うが・・・。
 
そんな不思議の国を楽しむかのように生きていく母親と姉を
『僕』はじっと観察しながらも、一定の距離感を保ち、
本人は生まれながらの処世術を駆使してじょうずに成長していく。
 
どの時代のエピソードも「海外あるある」に満ちていて、
私は少しこの物語の母に似ているかもしれないと思って読んでいる。
 
手に負えないてんかん気質の『姉』に対し、
どこか達観している『僕』がこの後、どうなるのか全くわからないが、
幼稚園でのクレヨン交換ごっこのくだりなど
今、私が子育て支援で担当している3歳児のみせるしぐさや態度を思いだし、
クスクス笑えてくる。
 
それも皆、西加奈子の描写力と観察眼のなせる技だろうから、
これからの『僕』の成長における心理描写がますます楽しみだ。
 
明日も花粉の飛散は大量らしいから、
家でおとなしく読み進めるのが一番ではないだろうか。
 
久々にオススメの1冊です。
よろしかったら書店で手に取ってみてください。
 


2015年3月2日月曜日

痛みと闘いつつ

 
 
 
2015年も早3月。
毎年のことながら、年が明けてここまでが早い。
 
今年の冬は一軒家にひとり暮らしになったせいか、
例年にも増して、寒さが身に染みる上に、
先週から、花粉症の症状も顕著に表れている。
 
そんな中、2月10日頃から始まった左肩から腕への痛みが
いつまでたっても治らない。
 
痛みは首と肩に始まり、徐々に下に下がり、肘のところで2週間以上とどまり、
24時間ジクジク、ビンビン痛んでいる。
肘の上を輪ゴムで止めたような感覚で、
肘から指先までしびれているし、鬱血したような感じだ。
 
かつて、利き手ではない方の手がこんなに痛んだことがないので、
原因が分からず、
整体では神経痛と診断され、施術をうけているのにも関わらず、
一向に治る気配がないのはイライラする。
 
今年の大学院の同級生の年賀状に、「ひどい腱鞘炎でビュラン(銅販の道具)が
まったく持てなくなり、年賀状も遂にコピーになってしまった」と書いてあったが、
他人事ではない。
 
この時は「おやおや大変だ」と対岸の火事のように思っていたが、
ここまで痛みが引かないなんて、想定外だ。
 
とはいえ、個展まであと1ヶ月半。
これから作品2点の試し摺りと本摺りが残っているし、
来週あたり届く案内状の莫大な量の宛名書きもある。
 
幸い利き手は痛んでいないので、
週末は左手と相談しながら、作業を進めることにした。
 
昨日今日と恐る恐る試し摺りをとり、
絵の具が不足しそうなので、蒲田のユザワヤへ冷たい雨の中を買い出しに。
 
和紙を湿し、絵の具の調合をし、いざ本摺りへ。
 
すべての工程を丸2日間、48時間の時間の中で
2時間ぐらい作業しては2~3時間休み、
また、作業しては休むという塩梅で何とか本摺り7枚を仕上げた。
 
使っているのは右手でも、どういうわけか左手の痛みは悪化する。
その度に布団に突っ伏して左肘を抱え込みながらひとりもだえ、叫ぶ。
 
もんだり温めたりしながら、だましだまし何とか摺り終え、
今はただただ明日の整体予約が待ち遠しい。
 
体を痛めて引退か。
運動選手でなくとも、絵描き達でもそういう人はたくさんいる。
有名どころでは
ルノワールも晩年は絵筆を腕にくくりつけて描いていたと言われている。
 
今は自分の体が思うように動かないもどかしさがじれったいが、
何としても治して、4月の個展を笑顔で迎えたいと願っている。
 
さあ、頼みの綱の整体の先生、
がんばって!!
頼んまっせ。