今日12月15日の夕方、ポストの中に1枚のハガキを見つけた。
喪の時に使用する官製ハガキに素っ気なく文字が印刷されている。
「妻 K子は十二月十日永眠致しました」とある。
まだ、5日前の出来事が葬儀も滞りなく済ませたという文面と共に
報告されていた。
私は先週、彼女はどうしているだろうと案じながらも
150枚の年賀状の1枚として、
彼女宛の年賀状をしたため、今朝、投函してしまった。
元日に主のいないマンションにその年賀状は届くだろう。
「体調はいかがですか。お目もじ叶う日を心待ちにしております」という
挨拶文と共に。
K子さんは17年ほど前に健康診断で肺に癌が見つかり、
片方の肺の2分の1を切除する手術を受けた。
その後、定期検診は受けていたのだろうが何ごともなく月日は流れ、
完治したといってもいいほど、普通の毎日を送っていた。
しかし、2年半前、脳に転移が認められ、新たな部位に肺の癌もみつかった。
再発である。
即、脳腫瘍を取り除く手術及び放射線治療と、
肺癌のための抗がん剤治療が行われ、
何の自覚症状もなかった友人は、一気に病人にさせられてしまった。
それからの2年半は腫瘍マーカーの数値がよくなって喜んだり、
しばらくして悪くなったりの繰り返しで
その度に抜けた髪のためにウィッグを作って、自分を奮い立たせ、
一方でいろいろ整理ものをしたりして、家族に迷惑がかからないようにしていた。
とにかく自立した女性だったので、
弱音を吐くことはなく、どこか達観しているというか、諦観しているというか、
それでも、3種類の抗がん剤治療と
2度のガンマナイフ治療は相当辛かっただろう。
今年の11月には「一か八かの外科手術を受けることにした」というメールを
もらったので、最後まで戦い抜いたことは間違いない。
まだ、ランチを一緒にできた今年の7月15日には
鎌倉の松原庵の蕎麦懐石をあらかた食べることが出来、
いろいろおしゃべりして過ごした。
(この日が会った最後の日になってしまった)
けれど、
「自分の人生が67歳でこんな風になるとは思っていなかったわ」という言葉に
私は何も返す言葉が見つからなかった。
また、
転移が見つかってからの2年半に、いろいろなこと
例えば翻訳の仕事、車の運転、遠くに出歩くことなど、
徐々に徐々に取り上げられ、
「生きがいが何もなくなってしまった」と嘆かれた時も、
私は共感するだけで、気の利いた言葉は何もかけることが出来なかった。
持っていたキモノや帯の中から、生前整理と称して私がいくつかいただいた時、
その男前な気っぷの良さと、
死にゆく自覚と、そのためになすべきことを決然と執り行う姿勢には
本当に感心した。
「最後は誰にも知らせず、誰にも会わずに、きっと間が抜けた頃に
死亡したお知らせが届くと思うわよ」というので、
「そんなこといわずにすぐ駆けつけるから教えてよ」といったものの、
彼女は自分で決めたとおり、家族だけが見守る中で旅立っていった。
それにしても亡くなった次の日には葬儀が行われ、
5日後にはお知らせが届くなんて、
何とも手っ取り早すぎて、悲しい。
2015年の年内に決着をつけるように旅立ったのは、
まるで彼女の意思のようにも感じられるが、
私達の年賀状の投函までに間に合せるためか、
異国に住むご家族の帰国のための事情か分からないが、
取り急いで事後処理がなされたような気がしてならない。
でも、その無機的なお知らせを側に置いて、
私は彼女との20年間の出来事を懐かしく思い出しながら、
これから少し祈りの日々を送ろうと思う。
K子さん、今までありがとうございました。
K子さん、どうぞ安らかに。
0 件のコメント:
コメントを投稿