西日暮里にあるアルハムブラというフラメンコのライブハウスに
以前、通っていた教室のスタジオライブを観に行ってきた。
今日、出演したメンバー10名の内、6名はよく知っているメンバーで、
その内5名は同じクラスをとって、一緒の曲を踊っていたことがある。
私は辞めてしまって、早丸3年経つが、
今日まで続けているメンバーの10年の研鑽の結果を目の前にして、
なんだか熱いものがこみ上げてきてしまった。
スタジオライブというのは、生徒の内の何名かが自ら手を挙げるか、
先生からの指命を受けて、半年先ぐらいの発表をめざし練習して臨む舞台だ。
1年半に1回の割りで行われる発表会は、
通っている生徒全員がそのスキルに合わせ、
取っているクラスごとの演し物を練習し、
取っているクラスごとの演し物を練習し、
大きな舞台で群舞なり、ソロなりで踊る。
しかし、スタジオライブは
場所がライブ会場という100名ほどの小さな空間になるとはいえ、
演目のほとんどはひとりずつ、
プロのギタリストやカンテ(歌い手)と共に、ソロで踊らなければならない。
場所がライブ会場という100名ほどの小さな空間になるとはいえ、
演目のほとんどはひとりずつ、
プロのギタリストやカンテ(歌い手)と共に、ソロで踊らなければならない。
いってみれば、私のグループ展と個展の違いみたいなもので、
展覧会の良し悪しは、グループ展は連帯責任なのに対し、
個展は完全にひとりに責任がかかっているというのと同じだ。
もちろん10名出演するから、そういう意味では10名の連帯責任だけど、
ひとり15分のそれぞれのソロパートは、その場にいる全員の目がひとりに注がれ、
きっと心臓が飛び出そうなくらい緊張するだろうし、
裸で舞台に立っているかと思うぐらいの恥ずかしさと高揚感だと思う。
かつて一緒に群舞を踊っていたメンバーが、
今、目の前でひとりずつ、アーティストとして躍りで自分を表現し、
そこにいる。
カンテの低く響く声と情熱的なギター、カホンのリズムとかけ声に背中を押され、
そこに今いる自分のすべてをさらけ出し踊る。
舞台の上で彼女達の胸に去来するものは何だろう。
かつて一緒に群舞を踊っていたメンバーが、
今、目の前でひとりずつ、アーティストとして躍りで自分を表現し、
そこにいる。
カンテの低く響く声と情熱的なギター、カホンのリズムとかけ声に背中を押され、
そこに今いる自分のすべてをさらけ出し踊る。
舞台の上で彼女達の胸に去来するものは何だろう。
そして、たった15分、その舞台に立つまでに、費やした時間と努力は
いかばかりだったか、想像するだけで、こちらの胸が苦しくなる。
フラメンコは決して明るく楽しい音楽ばかりではない。
むしろ、起源が虐げられたヒターノの嘆きから始まっているせいか、
そのほとんどのテーマが「孤独」や「苦悩」「悲哀」だったりする。
その重いテーマをいかに踊りと表情、かもしだす空気感などで表現し、
場の空気をその世界に引きずり込むことが出来るか。
うまく観客を引き込めないと
『何ひとり眉間にしわ寄せて、苦しそうに踊っているの?』と
観ている側の気持ちが離れてしまう。
自分が踊っていた当時は、あのステップがちっとも上手く踏めないとか、
あそこの振り付けがなかなか覚えられないみたいに、
技術的なことばかりが気になっていたけど、
単なる観客になって観てみると、そんな技術的なことは分からないから、
その人の表現者としての世界観の作り方の方がよほど気になってしまう。
私に今回のライブのお誘いをくれた友人は
チームリーダーとしてまとめ役も担っていたようだし、
踊り手としても看板ソリストとして頑張らなければならない位置にいた。
全員の踊りが終わり、彼女が挨拶したときに思わず涙声になったのを見て、
その責任の重さと、今日までの辛い日々が想像され、
私まで切ない気持ちになった。
趣味のフラメンコなのに、そんな甘いものじゃないというところまで追い込まれ、
時間もお金も想像以上にかかるし、
家族の協力と理解なしにはやっていけない。
時には先生から強い言葉で叱責されたり、
理不尽な物言いに涙をこぼすこともあったろう。
それを乗り越えさせ、舞台に立たせているのは、
ひとえにフラメンコが好きという思いだとは思うが、
とにかく今日はお疲れ様と強く抱きしめ、そのぬくもりで気持ちを伝えてきた。
「あ~、私もあそこにいたなぁ」と、フラメンコに関しては、ただ懐かしいだけだが、
単に楽しく踊るだけじゃ済まされないのか?
「かじりだしたばかりの私にとってのタンゴは、『お楽しみタンゴ』にしておこう」、
そんなことを考えながら、西日差す山手線をコトコト帰って来た。
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