陶芸工房は2ヶ月に1度の釉がけの日。
この2ヶ月に作陶して、素焼きの出来上がったものに釉薬をかけ、
本焼きに出す。
他にも、2週間前に造った3点の器の高台を削る作業もある。
先にそちらの作業を済ませてから、
素焼きの出来た4点の器の出来上がりのイメージを固め、釉薬をかけることにした。
計7点の器の内、6点が抹茶椀だ。
抹茶椀ばかりなのは、先週、「茶の湯展」と「楽茶碗展」を観たからというわけではなく、
この秋の合同展示のお題のひとつが「抹茶椀」なので、
それに出品するためのものを今から造っているというわけ。
大量の抹茶椀を観てきたばかりなので、参考にしている部分はある。
例えば、高台の直径が椀の部分に対してどれくらいかとか、
高台の高さが思ったより低いこととかだ。
しかし、楽茶碗とはそもそも土も釉薬もまったく違うし、
展覧会場の抹茶碗は、大きさも小さいものから大きなものまで様々だった。
結局、お茶を長いことお稽古している身として、
茶筅の振りやすさとか、飲むときの手のひらへの収まりとか、
飲み口の厚さや形状など、
使い勝手のよいものがいい抹茶碗なのではという結論に達し、
自分にとってバランスのよい抹茶椀を目指して造っている。
実は抹茶椀はすでにトライ済みで、2ヶ月前の本焼きで試した釉薬の組み合わせは、
予想以上にいい感じだった。
しかし、焼き締められて縮む分の計算が甘く、小さめに出来上がってしまったので、
今回の6点は大どんぶりぐらいの大きさに造った。
これで、本焼き後に思うような大きさになって欲しいと、今は祈るばかり。
陶芸を始めて丸6年、なかなか思い通りに焼き上がらないのがじれったい。
どこまで続ければそんな境地になるのやらと思っていたら、
隣のおじさんが「今日でここも最後」と言いながら、
リュックから日本酒の1升瓶を取り出した。
そのおじさんは大古株で、陶芸教室のアイコンのような存在。
身長180センチぐらい体重は100キロ越えかと思うようないわゆる巨漢。
最初に工房に行ったとき「なんて大きな人!と驚き、
その大きさとは裏腹に、繊細で優しく、丁寧な仕事ぶりにビックリした人だ。
ド素人の私に陶芸のイロハを教えてくださり、
逆に私の個展やグループ展にはこまめに来てくださる心優しきおじさんだったのに、
「陶芸も早20年やったし、70になったここらで、別のこともしようかと思ってね。
それにここまで通うのに1時間半かかるのはきつくなってきてね」と
何だか秘めた思いがある様子。
先生にしてみれば、1番弟子といってもいい人が辞めるのは、
痛手だろう。
工房の奥で、
陶芸体験にきているお客さんの相手をしていて私達の話に加われない先生に
わざと聞こえるように、私はこう言った。
「最近、よく思うことがあるのよ。
人生は諸行無常だってこと。
何ごとも永遠に続くことはないということだわね。残念だわ、とても」と。
目の前にいる2番弟子のおじさんはいかにも寂しそうな表情で、
陶芸工房で育てた友情にピリオドが打たれることがショックのようだ。
自分らしい老後とは、やりたいことをやる余生とは、
リタイア後の人生をどう生きるのか、
一流企業の企業戦士だったおじさん達の心が揺れているのが分かり、切ない。
抹茶椀を造れといわれても、お抹茶なんか飲む生活にないおじさん達にとっては、
意味のないことなのかもしれない。
私にとっての自作の抹茶椀で抹茶を飲む楽しみとは違う次元で
抹茶椀を造っているんだなと思い至った。
そこに「生きる意味」「創る意味」がなければ、
「いきがい」にはならないのかもしれない。
いきがいって、難しい。
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