娘が女の子を出産し、退院後に実家である我が家に暮らして1ヶ月半、
遂に娘が自宅に帰るこの日が来てしまった。
ここまでの週末、娘婿は泊まりがけで我が子の様子を見に来ていたが、
昨夜遅くに泊まりに来て、今朝、挨拶した後は
家の中の荷物をまとめ、娘と孫と共に家を出る「人さらい」にしか見えなかった。
今は乳児室だった和室に、
ベビーを寝かせていたゆりかごベッドもなく、
2客の客布団と枕が畳まれてあり、
汚れた紙おむつの入ったビニール袋がポツンと部屋の片隅にあるだけだ。
孫の志帆は今日まで順調に成長してきたが、
その間、母親である娘は母乳の出が悪く、何度か母乳相談にでかけ、
マッサージをしてもらったり、育児のアドバイスを受けたりした。
お陰で最初はミルクと母乳の混合だったものが、100%母乳育児に移行出来、
夜中の授乳が楽になったと喜んでいた。
一方、飲む方は順調だったのに比べ、自力でうんちを出すのは難しいらしく、
娘は、毎日、オリーブオイルで湿した綿棒でつついてはうんちを促してきたのだが、
ばぁばの私はそれすら面白がって、
その力む可愛い顔を動画に撮ったり、脇で励ましの声をかけたりして、
今日まで来た。
それが、今朝、娘は私と顔を合わすなり、
「ママ、今日は志帆の記念日になったわ」と喜び勇んで報告してきた。
何かと思えば、
今朝、初めて志帆が自力でうんちをしたという。
赤ん坊の仕事はいっぱいおっぱいを飲んで、たくさん寝て、
大きな声で泣いて、いいうんちをすることだと、何かの本で読んだが、
正に、自力うんちは実家を卒業する合図。
綿棒で排便を促すのは、女の子の赤ちゃんによくある「赤ちゃんあるある」で、
半年ぐらいまでは腸の活動が未熟だからしかたないとか・・・。
それでも、毎日つつかないと出ないなんてと心配していたところだった。
そういう意味でも自力うんちは、ひとりの育児に旅立つ朝にふさわしい成長の証だ。
1ヶ月半前にこの世に生を受けた子どもと、
母親という役目を負った娘。
父親という役目を負った婿もいるにはいるが、
結局、日中の育児は母親がやらざるを得ないし、
どんなに協力的な父親でもおっぱいが出るわけじゃない。
自分も同じようにふたりの娘の母親として、ここまでやってきたのだが、
間近で見ると、女にとって母親になることは本当に人生の激変だと思うし、
その責任の重さは計り知れない。
そんなホヤホヤの母親に、
ひとつ距離をおいたところで、自分の経験談を話したり、
娘の赤ちゃんの時のことを回想したりする時間はとても楽しかった。
そして、
志帆のすべすべの腿を「なんてムチムチなのかしら」とさすり、
ぷくぷくのほおを「うーん、可愛い可愛い」とつっつき、
立て抱っこしていろいろ話しかけるのは至福の時だったが、
それも今朝で終わった。
この1ヶ月半だけでも、志帆は相当変化を見せたので、
ここでしばらく離れると、次はまた違う表情を見せてくれるに違いない。
新しい命の尊さをあらためて知り、
いたいけな命を慈しむ母性に再び目覚め、
楽しくおせっかいを焼く。
そんな愛しい日々にしばしピリオドを打ち、
自分らしい日常を取り戻そうと思う。
それにしても、早くも「シポロス」である。
自分も単に孫が可愛くてしょうがないばぁばだったと実感している今日この頃である。
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