私の実の母親は約30年近く前に亡くなっているのだが、
その母の友人と長いことおつきあいがある。
Tさんは単に母の友人のひとりだっただけではなく、
私がまだ小学生だったときから知っているので、
言ってみれば、母親代わりのような存在だ。
そのTさんが数日前に89歳の誕生日を迎えたので、
今日は上野広小路にある『梅の花』という豆腐料理のお店に誘って、
お祝いをすることにした。
15年ぐらいは一緒に歌舞伎に行ったり、温泉に行ったり、ご飯食べしたり、
母代わりの親孝行ごっこも楽しく続いていたが、
ここ2年間ぐらいは腕を骨折したり、以前の輸血による血液異常が見つかったりと、
Tさんは身体的にも精神的にも落ち込むことが多くなって、
すっかり出億劫になってしまっているという。
この前、一緒にでかけたのは
2年前の冬に、海老蔵の『石川五右衛門』を演舞場に観にいった時だというので、
その間、何度も電話では話していたものの、
これは引っ張ってでも連れ出さなければと、半ば強引に約束を取り付けた。
久しぶりに見る彼女はすっかり小さくなってしまっていた。
前にも増して、歩くことが困難そうだけれど、
口だけは達者で、耳も遠くないし、会話のテンポも以前のままだ。
お豆腐のコース料理も少し私に手伝うよう促されたが、八割方食べられたし、
今日明日にどうこうはなさそうだったが、
本人はすっかり気弱になっていて、
「歳をとるといいことなんてほとんどないわ」と寂しいことをいう。
長女の結婚式の時の写真はミニアルバムにして送ってあったが、
今日も大きなアルバムにまとめたものを持っていき見せると、
楽しそうにゆっくりページをめくりながら、
細かいことにも気づいて感想を言ってくれる。
折々に「お母さんが生きていたら、きっとさぞかし喜んだと思うわよ」に始まり、
私の結婚が決まった頃にまで遡って、懐かしそうに思い出話に花が咲く。
母が生きていたら同い歳なので、9月に89歳になっていたはずだが、
60歳を目前にした59歳で亡くなってしまったので、
母の89歳は想像することさえ難しい。
でも、まったく姿もタイプも違うとはいえ、
母のことをよく知るTさんが、今でも私の家族の出来事を共に分かち合い、
喜んでくれるのは、本当にありがたいこと。
「もうお誕生日だからって、大層なプレゼントはやめてね。
私、和菓子が好きだから、和菓子にしてくださる」と言われていたので、
今日は梅の花のご飯と、源吉兆庵の和菓子を適当に選んで持っていった。
すると、Tさんも神戸のチョコレートと金沢の佃煮を持ってきていた。
そして、「ご飯だけで十分なのに、和菓子もだなんて、いただき過ぎだわ」と言って、
私がトイレに行っている間に、梅の花の「蟹シュウマイ」を買って追加してくれた。
いつも何かにつけて、季節のフルーツやゴディバのチョコレートが送られて来て、
また、それにお礼をすると、
私の個展だの娘の結婚だのと「お包み」が送られてくる。
いつまでたっても贈り物がいったり来たりしていて、
私の「もらい過ぎ」は一向に減らない。
それでも「お金はお墓に持って入れないんだから・・・」がTさんの口癖だ。
私の母もよくそんなことを言っていた。
そして、
母は家に友人を招いては、拙い手料理を振る舞い、
「さあさあ、遠慮しないで、食べて食べて」と
急かしながら、みんなに箸を勧めていた。
そういう日、私はお茶出し要員としておば様達の輪に加わっていたから、
おば様達の会話にもよく入っていたし、私の身辺の話も話題によく上っていた。
「お母さんは何かとせっかちだったわよねぇ。
食べて食べてってあんまり急かすから、あなたが『お母さん、そんなに言わなくても
皆さん、召し上がるわよ』ってよく言ってたわ。懐かしいわね。
せっかちだから、あんなに早く向こうにいっちゃって・・・」と、
今日もすでに何度も聞いた昔のエピソードを話してくれた。
母とのエピソードを語る相手は今やTさんひとりしかいないし、
亡き母のような年代で、一緒にご飯できる人もひとりしかいない。
帰り際、
タクシーに乗り込み、上野広小路から上野駅方面に向かう後ろ姿を見送りながら、
「これが最後になんてなりませんように」
そう祈る私がいた。
89歳、Tさんが九の坂をうまく越えられるますよう、
年始のお参りにいかなければ・・・。
2016年12月、夕方、風が急に冷たくなって、
師走の街はそそくさと暮れていった。
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