庭の「ジャスミン」と「エニシダ」の競演が済んで、
次に満開を迎えたのが、「ニオイバンマツリ」
そして、我が家のシンボルツリー「白薔薇」が
いよいよ咲き始めた。
薔薇はもちろん樹木ではないから
シンボルツリーとは言わないのだが、
そのぐらいのインパクトがあるという意味だ。
薔薇はこの家に越してきた時から植えてあり、
その生命力の強さから、
少しずつ誘引して、フェンスに絡まらせ、
玄関アプローチのフェンス全体を覆うようになった。
ニオイバンマツリは斜め前の隣人が、
「よかったらどうぞ」とまだ小さい木だったものを
カーパークの裏手に植えたら、巨大化した。
いずれも自ら買ってはいないのに、
大きく育ち、
強い芳香を放ちながら、
我が家のイメージを決定づけている。
今はコロナのせいで、お花屋さんも困っているし、
花の生産者はせっかく見ごろを迎えた出荷前の花を
捨てることもあると聞く。
折しも今日は「母の日」だが、
カーネーションが届く気配もないし、
自分で買いに行くというのも変だ。
しかも、カーネーションはまったく好みではない。
だからというわけでもないが、
2日前、友人たちが我が家に来てくれたのをきっかけに
庭に咲いた花たちを
家の中に持ち込み、あちこちに飾ってみた。
ちょっと手折った一枝も、
自分の作った器やこぶりのガラス器に刺せば、
あら素敵!
大層な花束でなくても
家の中に花があるだけで、
気持ちが和む。
ゆとりというか、時間が余り過ぎて、
イライラしている人は多いと思う。
それは私とて同じだ。
けれど、今の私は、庭の花のあるテーブルで、
掛川茶の新茶を丁寧に入れ、自作の湯呑に注ぎ、
自作のチョコラ・オランジェをつまむ。
それを客観的に見ている自分もいて、
「久しくこんな豊かな時間は持てなかったな」と
思う。
おうち陶器市のために、
あっちからこっちから、出してきた大量の器、
たくさんお求めいただいたとはいえ、
まだまだ大量に残った。
いっそ、これを機に廃棄処分しようかと思っていたのに、
「他の欲しがっている友人がいるから、
今度はSさんのお宅で陶器市しましょうよ」と
話が変な方向に進んでしまったので、
捨てるわけにもいかなくなった。
ならば、出した器を元に戻す際、
サイドボードと食器棚と吊り棚の「断捨離」をしよう。
そう思い立って、昨日、決行した。
また、月曜日のゴミの日に
我が家から「陶器」「ガラス」「蛍光灯」などと
上書きされた袋がいくつも出ることになった。
コロナ自粛の過ごし方のひとつに、
「家の中の断捨離」をあげる人は少なくない。
私もその一人として、
古くて長年、眠っていたものを切り捨てることにした。
更に、自分の作陶した器が評価されたことで、
自分の今までの作陶の歴史を振り返ることができたし、
他人様が見て、まんざらでもないことが分かったのは
嬉しい発見だ。
今日も、新茶の美味しい淹れかたを工夫しながら、
季節はコロナとは無関係にめぐることに思いをはせ、
次なる作陶のイメージを膨らますことにしよう。
なにしろ、
「結婚する孫のためのカレー皿2枚」と
「ピッチャー型花瓶と花瓶敷」(現在私が使用中)の
受注を新たに承ったから。
人は誰かのために生きている、
人は誰かのためになれる自分が嬉しい。
そんなことに改めて気づいた今日の私である。
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