1月15日、真冬の寒さと曇天と。
こんな日ならと思い定めて、
展覧会巡りをしてきた。
たぶん2万歩近く歩いたのでは…。
横浜在住の私は、朝9時に家を出発。
まずは、渋谷の松濤美術館で開催中の
「舟越桂展」を観た。
次に銀座に移動し、2か所のギャラリーを訪問。
そこで「野見山暁治展」の招待券をいただいたので、
有楽町から東京駅まで移動し、日本橋高島屋まで。
そこでようやくランチ。
いつもは満席で座れない小籠包の美味しいお店は
今日はすきすき。
そこから東海道線で横浜駅まで戻り、下車して
画材屋で絵具を調達。
急ぎ自宅に帰り、
車を出し、スーパーに買い出し。
とまあ、どこが不要不急の外出はNGなのか、
東京じゅうを巡り歩いてしまった。
野見山暁治も御年100歳になる
日本画壇の重鎮なのだが、
それよりなにより
「舟越桂展」がすごかった。
舟越桂は1951年生まれの69歳だから、
まだ現役バリバリの彫刻家だ。
写真にある通りの木彫の作家で、
本の表紙などに使われたりしているので、
なじみのある方が多いかもしれない。
そんなまだ現役の作家が
入場料を500円とって
美術館で個展をするということが
どれほど大変なことか。
(野見山暁治は高島屋で1000円取っていたが…)
それは少し絵画について知っている人なら
想像がつくだろう。
とある人が、FaceBookで
「舟越桂、行ってきたけど凄かった」と書いていて、
これは是非、行かなければと思い立ったわけだが…。
実際に本物を目の前にすると、
その静かなたたずまいから、放たれた魂のようなものが
私を圧倒した。
木彫とはもちろん木が素材で、
舟越桂の場合は楠らしいが、
なぜ木なのかが手に取るようにわかった。
ミケランジェロが大理石を素材に
あのような華麗な彫刻を彫り上げたように、
日本人である舟越桂は木を素材に選び、
人をモチーフに、
深遠で唯一無二のメッセージを
伝えている。
木には木目があるわけだし、
それに彫刻刀を入れれば、木彫の彫跡が残る。
そのぬくもりがあるのにどこか乾いた質感の布のひだや
頭髪、肌の感触が、
日本人のDNAに組み込まれた何かを刺激する。
自分も木版画を制作しているが、
銅板でもリトグラフでも、油絵でもなく、
木を素材にしている木版なんだということが、
共通していると、嬉しくなった。
コロナのせいか、来訪者はほとんどいなかったので、
開館の直後に入場し、
じっくり観ることができた。
「お前もしっかり作品に向かい合えよ」と
作品に背中を押され、
後の展覧会の作品群は、実は上の空だった。
絵具はやっぱり今日中に不足分を買いに行こうと
横浜に立ち寄った次第だ。
スーパーの買い出しもこれからアトリエに籠るための
下準備。
私も木という素材を選び、
その彫り跡に魅せられたひとりなのだから、
それを次の作品で証明しなければ。
そんな思いがこみ上げてきている。
「理論化できないことは、物語らなければならない」
という言葉が
舟越桂の図録の冒頭にあった。
イタリア人の記号論学者・ウンベルト・エーゴの言葉
ということだが、
舟越桂はその言葉に強い光を感じたとある。
舟越桂と同時代を生き、
似たようなことを見聞きしている私も、
何か物語らなければと、
今、自分の作品を前に、そんな気持ちでいる。
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