昼間とは一転、寒い雨が降る中、みなとみらい小ホールまで
コンサートを聴きにいった。
私が好きなバンドネオン奏者の小川紀美代さんとカルテット・カノーロという
若手の弦楽器奏者4人とのコラボレーションだ。
いったいどんな感じになるのか分からなかったが、
昨今、私が勉強中のタンゴとクラシックとの融合はどのような計られるのか
とても興味があった。
バンドネオンという、どこかノスタルジックで叙情的な楽器に惹かれ、
ここのところ何人かのバンドネオン奏者の演奏を聴くことがあるが、
ようやく少し分かったことがある。
それは、だれのバンドネオンも好きなわけじゃないということだ。
だれの弾くヴァイオリンも好きなわけじゃないというのと同じで、
バンドネオンの音がしさえすればいいというものじゃないということ。
当たり前といえば、当たり前なのだが・・・。
小川紀美代さんは最初観た時から不思議な人だった。
まるで『異邦人』とでもいいたいようなくしゃくしゃの布でできた洋服を身にまとい、
静かに舞台に現れると中央の椅子にひとり座って演奏が始まる。
膝の上に置いたバンドネオンを大きく開いたり閉じたり、
体全体をくねらせたり反らせたりして演奏する。
顔は目を閉じているが、ちょっとエロティックな表情になる。
顔は目を閉じているが、ちょっとエロティックな表情になる。
小柄なので、バンドネオンに操られるような感じで
体が縦横無尽にしなやかに揺れる。
曲のリズムに乗って、かかとで鳴らす音が舞台の音響効果のようだ。
途中、スッと吸い込む呼吸音さえ、指揮者のそれのように曲の一部になっている。
夕べの演奏を前から2番目中央のかぶりつきで見たり聴いたりしたことで、
自分がこの不思議なバンドネオン奏者自体が好きなんだと
分かった。
彼女が作曲した『光の道』『Delphos』という2曲は
以前にも聴いたことのある曲だったせいで、
ようやく体の中に素直に入ってきて定着した。
彼女の不思議な印象そのままの不思議な美しい曲。
タンゴの名曲『エル・チョクロ』『首の差で』という曲も
彼女の演奏ですこし前に初めて聴いたのだが、
鶴見大学でのタンゴの講座でも紹介された曲だと分かり、
点と点が線でつながったような気がした。
小川紀美代のバンドネオンとヴァイオリニスト上原千陽子の繰り出す
『コンドルは飛んでいく』はすごく情熱的で、
私達が知っている『コンドルは飛んでいく』とはまるで違っていて面白い。
それがオリジナル曲だということで、
訳詞を朗読の長浜奈津子が曲の合間に語るのだが、
そんな意味の歌詞なのかと驚く。
「私はかたつむりになるなら、スズメになりたい。
スズメになって空を飛びたい。
私は釘になるなら、ハンマーになりたい。
ハンマーになって打ち砕いてしまいたい」
みたいな歌詞なのだ。
2部は弦楽四重奏で耳なじみのあるクラシックの名曲を
4人の弦楽器奏者が5曲ほど弾いて
4人の弦楽器奏者が5曲ほど弾いて
最後はまた、小川紀美代とカルテット・カノーノとの演奏で
『忘却』と『リベルタンゴ』だった。
最初、初めての演奏家を見たり聴いたりしたときには感じなかった
演奏家の人となりや生活感のようなものが
何度か同じ人の演奏を聴いている内にわかってくる。
演奏家も人の子だからね。
演奏家も人の子だからね。
夕べも全身黒いボロ雑巾のような布を身にまとい、
黒い頭巾をかぶった小川紀美代が
古い愛器のバンドネオンを全身で奏でるとき、
人生をバンドネオンに捧げた彼女の生き様がひたひたと伝わってきた。
玉虫色のロングドレスに身を包んだ
クラシック畑に棲んでいるヴァイオリニストの上原千陽子とは、
楽器の演奏を通して意気投合し、
クラシック畑に棲んでいるヴァイオリニストの上原千陽子とは、
楽器の演奏を通して意気投合し、
ビジュアル的にはちぐはぐなれど
お互いリスペクトし合って演奏していることが分かる。
言葉のいらない音楽という世界で
巡り会えた大切な友人なんだろう。
ふたりが心と心で通じ合っているということが伝わってくるコンサートだった。
きっと誰しも人はそうした出逢いを求めて生きている。
生きている間に
生きている間に
言葉を介さなくても通じ合う人に何人出会えるだろう。
音楽の楽しさ、人との出逢いの歓び、
そんな感覚まで伝わってきた、かぶりつきで観た舞台。
ひとりで聴きに行っているのが少し寂しい気もしたが、
それでもひとりほっこりした、いい時間だった。
外は急に冷え込んで雨まで降っているけど、
体の芯にろうそくの灯が灯るようなステキなコンサートだった。
外は急に冷え込んで雨まで降っているけど、
体の芯にろうそくの灯が灯るようなステキなコンサートだった。
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