2017年4月18日火曜日

スペイン紀行④ 血がたぎる洞窟フラメンコ

 
 
 
 
 
スペインに行く目的のひとつは
12年前に見て感激したグラナダの洞窟のタブラオで行われるフラメンコを
再び、観ること。
 
スペイン各地でフラメンコのショーは行われているが、
本来、フラメンコはヒターノ(ジプシー)のものなので、
マドリッドやバルセロナといった都市部ではなく、グラナダやへレスなど
南の地方のものにこそ、その神髄はある。
 
その差は歴然で12年前に全くの素人だった私でさえ、
マドリッドのものは観光客向けだということが分かった。
 
その当時、グラナダで観たフラメンコに衝撃を受け、
帰国後、さっそく検索して、フラメンコを初め、
7~8年はレッスンしただろうか。
 
壁にぶち当たり、やめてしまった今も、時折は昔の仲間のライブなどを観ているので
今回、また本物に触れられることを心待ちにしていた。
 
アルハンブラ宮殿の見学を終え、ホテルに着いて夕食を済ませ、部屋に戻り、
また再集合してから、ミニバスで丘の上のタブラオまで向かう。
時間は限られていたけど、私達はショーを観るためにワンピースに着替え、
テンションを上げた。
 
私は赤いワンピースに黒い編みタイツ、黒い靴にした。
 
前回の洞窟フラメンコはぐるり取り巻いて座っている私達の目の前で
踊り子達は踊り、同じフロアにカンテという歌い手とギター奏者もいた。
 
同じフロアなので、目の前で激しく踊るスカートの裾が翻り、
踏みならす足のステップに床が振動し、汗が飛んできた。
 
そして、最後の10分、お客を誘って一緒に踊ろうという時に、
ひとりの中年の踊り子が私の目の前に立ち、「来て」と言って誘ってきた。
 
全く何も知らない私だったが、見よう見まねで手振りをし、くるりと回った時、
同行のツアーメンバーから拍手が起こった。
 
それに味をしめた私は帰国後、フラメンコ教室に通い出したのだが・・・。
 
今回の洞窟フラメンコは別のファミリーが経営するタブラオで、
行ってみると奥に舞台があり、細長い洞窟いっぱいに椅子が並べられていた。
 
「この舞台のスタイルでは最後にお客が引っ張り上げられることはないな」と
少しがっかりし、少し安心した。
 
今の私はフラメンコの難しさを知っているので、
昔の私のように屈託なく身振り手振りのまねは出来なくなっているからだ。
 
ワンドリンク付きなので、飲み物の注文をし、会場がわさわさしていると、
後方からギターとカンテの男性と、ふたりの女性の踊り手が舞台へと上っていった。
 
太ったカンテのおじさんががなるように歌い出す。
ギターにキレがあって、ドラマチックな音色だ。
まずは顔の小さな若くて美人の踊り手が、1番手として踊り出した。
 
途中、たくし上げたロングスカートの中から
可愛い顔とは似つかわしくない肉感的な太ももが現れ、ドキドキする。
 
巧みなステップに、私達のグループも、隣の外人のグループも
呆気にとられているのが分かる。
 
自分も少しはステップの練習を経験したから、それがいかに難しいか分かる。
なぜ、こんなに激しいダンスを自分もやってみたいと思ったのか、
身の程知らずもいい加減にしろと顔が赤くなる。
 
二人目の踊り手はその若い娘のおばあちゃんかと思うほど年上だが、
眼光鋭く会場を睥睨し、
カメラのフラッシュはお断りなのに、誤って光らせた外人に向かって
何か叫んでいる。
きっと「こんなんじゃできない」とか何とか言っているに違いない。
 
しかし、若い娘の後におもむろに立ち上がり踊り出すと、
会場は娘の時とはまた違う空気に包まれた。
 
手につけたカスタネットの音がギターの音色と共鳴して力強く弾け、
昔取った杵柄は伊達じゃないと言っているようだ。
 
後半はフルメンバーチェンジ。
今度は男性の踊り手1名と女性の踊り手2名に、男性のギターとカンテだ。
 
フラメンコというと水玉のロングドレスを着た女性の踊り手の印象が強いが、
どっこい、男性の踊り手のかっこよさと力強さはハンパない。
 
後半のトップに踊った猿顔の男性は
面差しが似ているので前半のおばあさんの息子かも知れない。
 
顔に見覚えがあるので、日本で公演したか、教えにきたことがあるかも。
 
そんなことを考えていたが、
踊り出して、ビックリ。
 
まさに釘付けのサパテアードは迫力満点、
ズボンから浮き上がる腿の筋肉がけもののように動き、
靴のかかととつま先で強い音をかき鳴らす。
 
長い髪から汗がしたたり落ち、最前列に降りかかっているのが見える。
 
私は「これを観るためにスペインに来たんだ」と確信する。
 
その後、ふたりの女性が踊り、1時間15分ほどでショーが終わった。
少し明るくなった店内では、連れの友人が興奮冷めやらぬ様子だ。
 
体中をアドレナリンが駆け巡り、
何かが突き上げてくるような錯覚に陥る。
 
「凄かったね~」と
それ以外の言葉が見つからない。
 
12年前のあの日の無知ゆえの馬鹿さ加減に呆れつつ、
フラメンコは自分でするものではなく、観るものであり、
感じるものだと理解したのであった。

0 件のコメント:

コメントを投稿