10月11日夜、
鎌倉の鎌倉宮の境内にて、
今年も年に一度の薪能が奉納された。
私はお茶で一緒の友人に誘われ、
昨年から観に行っているので、今年で2回目。
今回もお茶の先生とお社中の仲間の
計4人で鑑賞することになった。
夕方6時の開演に合わせ、
4時半に駅前に集合し、タクシーで向かった。
ドレスコードはもちろん着物だが、
鎌倉宮は街中より少し奥まった森の中なので
夜は寒くなると見越して
皆、ウールやカシミヤのストールも準備した。
幸い、雨続きだった10月も
1日前から晴れて秋晴れになってきたので
雨の心配はなさそうだが、
袷の着物に道行コートを羽織っても
全く違和感がないので、
今年は昨年の同じ時期より少し寒いのだろう。
(昨年は帯つきといってコート無しだった)
『薪能』というのは
芸能ではあるが、意味合いは『神事』なので
天下泰平・国土安穏・五穀豊穣を祈って
奉納されるもの。
まずは、神事開始の太鼓が打ち鳴らされ、
僧兵によるほら貝の音で能の開始が告げられる。
次に火入れ式といって
古式にのっとり、神前からご神火をともした松明を、
神職から巫女さん、そして
正副奉行へと手渡しで受け継ぎ、
舞台脇の2か所の薪に灯される。
私達は舞台から6列目の中央の席だったので
森の奥から静かにやってくる僧兵や神職、
巫女さんたちの姿は遠くにしか見えなかったが
松明が正副奉行へと手渡されたあたりから
真正面でその様子を見ることが出来た。
薪に火が灯されると
火の手と共に煙が立ち上り、
パチパチとはじける火の粉が舞い、
観客はその煙の香りと火の粉の音を
五感で感じることが出来、
一気に、森は冷気の中で行われる神事の
厳かな空気に包まれた。
鎌倉の薪能はお能の金春流が中心に行われ、
素謡・翁
狂言・墨塗
能・通小町
という演目だった。
その内、狂言は中身の言葉が分からなくても
役者のしぐさだけで十分理解できる
おかしみを表現したものなので、気が楽だ。
今年の演目は「墨塗」という。
遠国の大名が国に帰らなくてはならなくなり
そのことを告げられた親しくしていた女が
壺の水を目につけてウソ泣きをする。
それを見つけた太郎冠者は水の壺と墨の壺を
入れ替え、途中から顔に墨がついてバレる
というお話。
大名役を野村萬斎の息子裕基が演じており
顔立ちは母親譲りだが
声質がお父さんそっくりで、
よく通るいい声だった。
狂言のおかしみも上手に演じていて
とても楽しめた。
昨年は狂言の太郎冠者は萬斎さんだったので、
こうして次の世代に交代していくのだろう。
しかし一方、能の「通小町」のほうは
能の言葉や所作の意味合いが全く
分からないので、
あらかじめ友人が準備していくれた筋書きを
読んで予習しておいた。
それを読んでいても、尚、
よくわからないのがお能の世界だが、
小野小町に恋焦がれた深草少将が
百夜通えば思いを叶えようと言われ
通い続けたのに九十九日で焦がれ死んでしまう
という「百夜通い」のお話である。
絶世の美女と言われた小野小町も
晩年は落ちぶれて惨めな姿で
舞台に登場したのは
小野小町の幽霊だというし、
深草少将はすごい形相のやつれた能面なので、
言葉の意味は半分も分からなかったが
その想いの深さや怨念みたいなものは
十分伝わってきた。
とはいえ、お能の動きの少ない表現方法や
能面に隠れてくぐもった声など、
意味がよく分からないだけでなく、
かなりの難易度で、私には難しい芸能だった。
夜8時半
舞台はすべて終わり、
寒さもいや増していたが、
あらかじめ寒さ対策をしていたので大事はなく
無事に薪能の雅な世界は終わった。
見上げれば、ちょうど半月の煌々とした月が
秋の夜空にぽっかり浮かび
薄い群雲がかかって、いと美し。
などと、雅に装ってはみたものの
鎌倉駅に行くための乗り合いバスの列は長く
夜の寒さがしんしんと降ってきて、
私達は手をすり合わせながら
帰りのバスにそそくさと乗り込んだ。
年に一度の古式豊かな夜でした。
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