2017年12月29日金曜日

永遠のお別れ

 
 
 
キーンと風が耳に冷たい冬晴れの早朝、
私は喪服に身を包み、家を出た。
 
1週間前に突然亡くなったTさんのご葬儀に参列するためだ。
 
満90歳で亡くなられ、ご葬儀は本当に身内だけの家族葬で営まれるというのに、
特別に私だけが親族でもないのに呼んでいただけたのだ。
 
田端の駅前にある家族葬専門の小さなメモリアルホール。
2階の会場には白木の祭壇と喪主の名前しか札のないお花が飾られ、
薄紫の布に覆われた棺が安置されていた。
 
祭壇には赤い服を着ただいぶ前の写真と思われる故人の遺影があり、
静かに微笑んでいる。
 
ひとりを除いてお目にかかるのは初めての方ばかりだったが、
全員、私の名前はよく故人から聴いていましたと快く迎えてくださった。
 
喪主は92歳という高齢で後に残されたご主人だ。
 
ひとり息子は20年近く前から心を病んで、実社会からは遠のいて暮らしている。
そのため、母親の突然の死が受け入れられないのか、
お通夜にもご葬儀にも来ていないという。
 
耳の遠い92歳のおじいさんと、
そろそろ還暦を迎えようというのに、自分のことだけでいっぱいいっぱいの息子。
 
元は有名大学の助教授だった優秀な息子なだけに、余計切ない。
 
故人は男ふたりを残して、さぞや心残りだったであろうと思うのだが、
その場にいる親族は案外なるようにしかならないというような受け止め方のようだ。
 
きっと医療機関だけでなく、警察や葬儀社など、
突然の死を受けてやらなければならないことが急に押し寄せてきて、
心の穴にはまだ気づいていないのだろう。
 
棺の中のTさんも生前のお顔とはだいぶ様変わりしていて、
私もなんだか実感が湧かなかった。
 
真言宗のお坊さんによるヒンドゥー語の不思議なお経が朗々と語られる中、
参列者が少ないからか、2度、お焼香をし、葬儀は滞りなく終わり、
その場に荷物を残したまま、親戚の皆さんと一緒のマイクロバスに乗り込み、
町屋の斎場へと向かった。
 
町屋の斎場はかつて、私の母と父が亡くなった時にもお世話になった焼き場で
30年近く経って訪れてみると、
同じ敷地だが素晴らしい建物に建て替えられていた。
 
今でも「シャンデリアの間」といって、個室で焼いてもらえるお部屋には
ひだのたっぷりとられたカーテンが掛かり、天井には豪華なシャンデリアがあった。
 
しかし、Tさんは大部屋の一番左端のお釜で、
天国へと旅立っていった。
 
何度か今までにもこうした場に立ち会っているが、
厳かだけど、どこか流れ作業な感じは否めない。
 
きっとそれぞれが結んだTさんとの思い出を、
時を置いてたぐり寄せ、愛おしく思う日が来るのだろう。
 
Tさんが長いこと気にかけてくれていた私の展覧会に、
これからは代わりに来てくださるというので、
ご親戚の何人かと名刺交換をして、ひとり帰りの電車に乗った。
 
T家の人々と新しく始まるご縁もあるかもしれないなと感じながら、
人生は輪廻転生、
こうして移ろっていくものだと、私は冬の空を仰ぎ見た。
 
さようなら、Tさん。
天国で私のお母さんに会ったら、よろしくね。
 
今日まで長いこと母代わりになってくれて、ありがとうございました。
 

2017年12月28日木曜日

年の瀬に孫襲来

 
 
 
 
今年もあと数日と押し迫った26日から28日まで、
長女が娘と共に泊まりがけでやってきた。
 
ついでに姪っ子の顔見たさに次女まで泊まりがけでやってきた。
 
去年までは独立した娘達は大晦日か元旦にしか来なかったし、
おせち料理を伝授しようと思っても、からきし興味もないみたいで、
食べる一方だったくせに・・・。
 
赤ちゃんの魅力は抗しがたいものがあるようで、
かくいう私も、いつもなら年の瀬は毎日、大掃除と正月準備で忙しいのに、
今年は大掃除はだいぶ前から着手したし、
おせち料理とパーティ準備はこの3日間の前後に振りわけた。
 
生後7ヶ月を前にした志帆は
しっかりお座りが出来るようになり、
離乳食もだいぶいろいろなものが食べられるようになってきた。
 
もちろんまだホンの少量しか食べないし、
相変わらず一番好きな離乳食は焼き芋とお粥なので、
典型的なぽっちゃりタイプの女の子を目指しているらしい。。。。
 
我が家に来ていたこの3日間にも、2回、近所のスーパーで焼き芋を買った。
1回目は紅天使とかいう品種で、糖度35~40度だという。
みるからに芋の皮から密を吹き出して甘そうだ。
2回目は紅はるか。こちらは紅天使ほどねっとりとはしていなくて、甘みも控えめ。
 
しかし、いずれも大好物らしく、小さな口を何度もぱくぱくさせて、
「もっとちょうだい」とせがみ、
ひとくちに入れすぎると(それは食べさせているオーママのせい)
おえっとなりながらも頑張って食べている。
 
赤ちゃんが無心にものを食べている姿は本当にいとおしく、可愛い。
 
長女が特に食が細くて苦労したので、
その娘である志帆が美味しそうに、時に酸っぱそうにしたり、おえっとなりながら、
それでもいろいろなものを受け入れ食べてくれるのは微笑ましいし、ありがたい。
 
年末から年始にかけては、娘夫婦はハワイに行くことになっている。
 
昔は小さな子どもは母親と一緒に写真に写って、1冊のパスポートだったが、
今は0歳児の志帆も1冊のパスポートを申請したという。
 
それを5歳までは使えるというから驚きだ。
 
0歳児と5歳児では顔も全然違うだろうに・・・。
 
そして、今回のお泊まり会では初めてチャイルドシートを装着した車で
ジージが送迎を行った。
 
その車というのは12月始めに着たばかりの新車で、
チャイルドシートを装着するために今までよりグレードをアップさせた総革張りの
高級車だ。
 
人には軽で十分と言い放っていたくせに、孫のこととなると・・・。
 
しかも、車体のチョコレートブラウンの色に合わせて、
チャイルドシートは焦げ茶と黒のツートンカラー。
 
まさに姫様御用達の御用列車だ。
 
「孫は可愛い」というののジージなりの表現方法なんだと呆れるが、
ばーばはばーばのかわいがり方で頑張るわ!
 
次も何か好物を作ってあげようと思うオーママなのであった。
 
 
 
 

2017年12月25日月曜日

トリオ・リベルタのクリスマス・ライブ

 
今年最後のコンサートはトリオ・リベルタのクリスマス・ライブだった。
 
昨日のクリスマス・イブには悲しい訃報が飛び込んできてしまったし、
子供達は独立しているので、今更、クリスマス・ツリーでもなく、
ダンナとふたり、寂しくおうちディナーを食べて過ごした。
 
「一応、ディナーの体裁は整えたので、どれかワインを開けて」というと
泡の出る奴が何本かあるからとダンナがシャンパンを抜栓した。
 
シャンパンは抜栓したからには全部飲まないと気が抜けるからと、
グラスに3~4杯ずついただいたので、すっかり酔っ払ってしまった。
 
亡くなった母代わりの友人のことが頭から離れず、酔いは直ぐに回った。
 
今日も、午後からの整体で、ブログを読んでくれていた先生と
亡くなった友人の話になったので、
気分はちっともクリスマスらしい感じにならなかった。
 
関内にあるライブハウスKAMOMEのリベルタ・ライブに行くのは
これで4回目。
 
一緒にいく友人が3時間も前に整理券を取りに行ってくれて、
開場の時間に私達は落ち合い、整理券の若い順に席を取る。
 
今回は真っ正面に石田泰尚さまが見える位置。
 
前回は脇の少し前寄りの席だったが、目の前の人が邪魔でイライラしたので、
今回は少し後方にはなるけど、前にいる人達はソファ席なので、
スツールの私達は一段高いところからスコーンと石田さまが見えている。
 
ライブの良さはプレイヤーの近さと閉塞感のある空間と、
演奏中からプレイヤーもワインを飲んでいるという何でもありの気軽さだろう。
 
リベルタにとっても、今夜が今年最後のコンサートだということで、
最初から打ち解けた感じと、好きな曲だけ選曲しましたみたいな構成で、
彼らの素が見えた気がした。
 
曲目は前半が大好きなピアソラばかり10曲、
後半はミシェル・ルグランやニーノ・ロータの曲など映画音楽にも使われた
メロディの美しい曲ばかり。
 
昨日の今日なので、メロディの美しい切ない曲が続くと、
自然に脳裏に映像が浮かんでくる。
白いレースのカーテンが翻る窓辺に広がる緑の庭の景色だった。
 
穏やかな青い空と白い雲、
草原を足首の細い女が白いワンピースをきて、弾むように駆けている。
 
もちろんそれが母代わりの友人の姿というわけではないのだが、
その光景を見ている切なくて涙が出そうな気分は、
間違いなく友人への思いと重なっている。
 
死はある種「解放」なんだという感じは昨日からしているから、
今日はとりわけ、メロディの美しい曲が心に染みるんだと思う。
 
リベルタの選曲がすべてTさんへのレクイエムのようだった。
 
ライブハウスにいたリベルタファンのおば様達とは違う思いで
私は今日の演奏を聴いていたんだと思うけど、
美しい旋律の音楽は本当に心を温めてくれると実感したライブでした。
 
ありがとう、トリオ・リベルタ!
Merry Christmas!

2017年12月24日日曜日

イブに届いた訃報

 
有馬記念の出走が今、始まろうというその時、
手元のケータイの電話が鳴った。
 
液晶には母代わりのTさんの名前が表示されていたが、
出てみると電話の声は若い女性だった。
 
瞬間的に嫌な予感がしたが、正にそれは的中してしまった。
 
「叔母が21日の夜、お風呂に入っているときに亡くなったようで、
気がついたのは翌日の朝、ヘルパーさんだったんですけど・・・」という話だった。
 
入浴中に心臓発作かなにかを起こしたらしく、
その後、溺れて少しお湯を飲んでいるけど、さほど苦しまなかったということだが、
最後を見届けた家族は誰もおらず、
ひとり浴槽に沈んでいたらしい。
 
誰もいないところで亡くなってしまうと事故死扱いになって、
警察が入ることになり、解剖までしたらしい。
 
 
 
Tさんは12月6日に満90歳の誕生日を迎えた。
 
最近はどこが悪いというわけでもないのに元気がなく、
4月末に上野広小路のお豆腐専門店で食事をしたのが最後で、
それからは時折、電話で話す程度だった。
 
私は90歳のお祝いをさせて欲しいと外に連れ出そうとしたが、
「今はそういう気になれないの」と断られてしまったので、
ちょっとハッパをかける気持ちで、誕生日のお祝いとしてオシャレなステッキと
和菓子に卒寿のカードを添えて贈った。
 
それを涙が出るほど嬉しいと言って、お礼の電話をくれたのが
声を聴いた最後になってしまった。
 
その時、「今は病院と美容院ぐらいしか出歩かないの」と言うから、
「次の病院の時、お医者様にお豆腐食べに行っても大丈夫ですかって訊いて、
いいですよって言われたら、また、ご飯食べに行きましょうね。
その時はそのステッキを使っているところを見せてくださいね」と言ったのに・・・。
 
また、今年も年の瀬に大切な人が亡くなってしまった。
 
昨年は大学時代からおつきあいのあった額縁屋さんを、
一昨年はシンガポール時代からの親友を見送った。
 
いずれもその年の真ん中ぐらいから、それぞれ没交渉になって、
ちょっと嫌な予感がする。
 
そして、年内に決着をつけようとしたかのように暮れに訃報が届くのだ。
 
Tさんは私が小学生の時からを知っている母の友人で、
母を30代始めに亡くしている私にとって、
正に母代わりの大切な人だった。
 
思い出も数え切れないほどあるので、身に染みて悲しくなるのはこの先だろう。
 
今日の午後3時半、音を消したテレビの画面に、
武豊騎乗のキタサンブラックが鮮やかに先頭をきって駆け抜けていく姿があった。
 
引退を決めて尚、有終の美を飾ってゴールを決めた美しい馬と、
突然、天国に旅立ったTさんの姿が重なって、
走馬燈にようにTさんとの思い出が駆け抜けた。
 
29日の日、家族葬でひっそり送られるというご葬儀に呼んでいただけたので、
最後のお別れに行ってこようと思う。
 
2017年12月、私の痛めた首からくる左手のしびれは相も変わらずで、
日に何度も肘から指先まで電気のように流れては、私を苦しめている。
 
Tさんも手首の骨折以来、手の先はいつも痺れているのよと言っていたけど、
今はもうその痺れからも解放されてしまったんですね。
 
Tさん、どうぞ安らかにお眠りください。
合掌。

2017年12月21日木曜日

今年最後の木版画教室

 
 
 
「今年も最後の・・・」といいながら、毎日、用事や行事が済んでいく。
 
今日は今年最後の絵画教室だった。
昨日は今年最後のお茶のお稽古だった。
 
絵画教室では、毎年、カレンダーを版画で創っているので、
11月に入ると、
カレンダーの台紙の部分に来年の暦の数字の部分を摺らなければならない。
 
一方で、各人が自分の受け持ち月の作品も摺って仕上げなければならない。
 
それらを持ち寄って組み立てるのが、その年の最後のお稽古日、
つまり、今日だった。
 
版画という複数できる強みを活かして、カレンダーを作るようになって
早20数年ぐらいは経っただろうか。
 
以前はカレンダーの他にも、テーマに合わせた作品を創っていたのだが、
私も含め、みんな年をとったせいか、
ここ数年はカレンダーしか作らなくなってしまった。
 
絵画教室といっても、前は水彩画を描いている人もいたのに、
今は木版画の生徒さんしかいないし、
ごくこじんまりとした教室になってしまった。
 
徐々に形態や人数や内容が変わっていく一抹の寂しさは否めないが、
逆にのんびりとした競争心や闘争心とは無縁なほのぼの教室として続いている
ぬるま湯的な心地よさもある。
 
生徒さんがいろいろな事情で辞めていくことが続いた時期は私も凹んでいたけど、
「去る者は追わず、来るものは拒まず」の境地に達した時点で
だいぶ楽になった。
 
「今年最後の・・・」にあたって、1年を振り返ってみると、
新しいことも多かったことに気づく。
 
年始め、生まれて初めて帯状疱疹という病気にかかり、
あまりの痛みで2ヶ月もの間、通常の生活が出来なかったこと。
それによって、健康のありがたみを再認識。
 
6月始め、初孫・志帆が生まれて、初めてばぁばという役どころを得たこと。
それによって、命の不思議と魅力を再認識。
 
秋、心理カウンセラーのホームページがきっかけで、
福利厚生倶楽部の推奨カウンセラーに登録されたこと。
また、別会社で女性経営者のためのエグゼクティブ・カウンセラーに登録されたこと。
それによって、心理カウンセラーとしてのお墨付きをいただいた気分。
 
年始めから新しいお茶の先生のお稽古場に通うようになり、
月3回のお稽古の他、年に数回のお茶事にも参加し、
人生におけるお茶濃度が急上昇。
それによって、より真剣に茶道に取り組もうと決心。
 
と、ざっとあげてみただけでも、
案外、変化のあった1年である。
 
「今年は早かったわ~」と会う人ごとに言ってはいるが、
1年365日、短く感じたとはとはいえ、1年はそれなりに長い。
 
今年の暮れも絵画教室のメンバーと恒例のキリンビールの生麦工場に行き、
併設のビアホールで、作りたてビールと美味しいお料理で打ち上げの会をした。
 
キリンのビール工場やレストラン自体はとてもおしゃれな建物なのに、
今年、その真横に4本の高速道路が完成し、
その周辺の風景が一変していた。
 
高速道路の真下にたくさんの花や観葉植物を植え、
キリン側もそれなりに工夫はしているものの、
あまりに近くて巨大なこの高速道路はいかがなものか・・・。
 
この夏に来た時にはなかった風景にみんなで驚嘆しながら、
そこにも移りゆく日々を感じざるを得なかった。
 
新しいものと変わらないもの、
新しい人間関係と変わらず続いている人間関係、
しみじみ両方あることを再認識して、
長いおつきあいに感謝のビアグラスを合わせたのであった。
 
乾杯!
 
今年1年、お疲れ様!
来年もよろしくね!

2017年12月17日日曜日

暮れの大仕事

 
 
暮れになると気が重い。
 
この時期、やらなければならないことが、ドッと押し寄せる。
 
私のとって1番気が重いのは、年賀状書きだ。
 
昨今、年賀状なんて出さないで、あけおめメールで済ませたり、
めんどくさいので自主的に廃止したりする人は多い。
 
出したとしても、両面共、印刷で済ませたり、写真を取り込み可愛く加工しておしまい、
そういう人がほとんどだと思うのだが・・・。
 
版画家としてはそうもいかない。
 
版画というのは、そもそも複数摺ることが出来るのが最大の特徴なので、
1枚だけいいものを版画で創って、後はコピーするみたいなことは、
自分的にはあり得ない。
 
(そういう版画家が昨今、増えている)
 
しかし、通常の版画作品と違うのは、摺る用紙が手漉き和紙ではないので、
(水彩画用細目、洋紙のハガキを使用)
和紙ほど絵の具の食いつきがよくないこと、
そして、画面が当然のことながらはがきサイズなので小さく、
しかも、余白がないので、
はがきの縁が即、余白と考えなければならないこと。
 
その本ばれんの入りきらない小手先のチマチマした作業、摺りのノリの悪さ、
いずれも私の性に合っていない。
 
が、それでも毎年、版画の年賀状を楽しみにしていてくれる人はいるので、
今年も重い腰を上げ、先週から作業に取りかかった。
 
丸4日もかけて、まず、原画を起こし、版を彫って、
次に絵柄を150枚摺り上げ、宛名書きをした。
この暮れの忙しい時期に丸4日の作業は長すぎる。
 
来年は戌年なので、
草原をオオカミみたいなスタイルの犬が疾走している図にした。
 
でも、再来年はイノシシ年なので、
また、イノシシが突進している図になるかもと途中で気づいたが、
すでに遅し。
 
まあ、毎年毎年、ジタバタと駆け抜けて、何か足跡が残せればと考えているのは
いつものことなので、こういう絵柄になっても仕方あるまい。
私らしいと思うことにした。
 
摺り自体は絵柄をあまりハガキの端っこにかからないようにしたので
やりやすかった。
だんだん、摺りにくいもの、版数の多いものは避ける傾向にあり、
これも歳のせいと自分で自分を慰めている。
 
宛名書きの方は印刷にしてしまうという手もあるが、
片面が印刷だと、手摺りの面も印刷っぽくなって
1枚1枚手で摺った意味がなくなるような気がするので、
こちらも律儀にすべて手書きである。
 
しかも、自分の名前の前に
「明けましておめでとうございます」の文字でコメントエリアを作り、
3~4行の文章を入れるので、
宛名の面も文字でガチャガチャしている。
 
一応、絵柄の方の面は作品のつもりなので、
そこに書いた文字はいれないのがマイルールである。
 
なのに、以前、まだ結婚前の長女が「版画の年賀状をちょうだい」といって、
摺りたての年賀状を数枚抜き取り、絵柄の面に
「今年もよろしくお願いいたします」と書いて、上司や友人に送ったことがある。
 
一般の人はきっとこんな感じと、
軽く殺意を覚えながら、
今年も自己満足にすぎない、めんどくさい年賀状を制作し、
無事、年の瀬の大仕事のひとつを終えた。

2017年12月13日水曜日

生後半年の興味

 
 
 
年の瀬になり、娘が美容室と整体に行きたいので、
ベビーシッターをして欲しいと言ってきた。
 
月初にも保育園のエントリー関連の役所仕事があるので来て欲しいと
要請があったばかり。
 
孫はちょうど生後半年を迎え、だいぶ赤ちゃんらしくなってきたので、
オーママの顔を思い出させるためというか、刷り込むためにも、
こうしたヘルプ要請には応じることにしている。
 
今回はクリスマス直前ということもあって、クリスマスプレゼントとして、
小さなハリネズミのぬいぐるみを持っていった。
 
ハリネズミのぬいぐるみは、孫の母親である長女が生後半年ぐらいの時、
香港のデパートで買い求め(香港在住だった)、
長らく気に入って側に置いていた思い出の動物というかモチーフなのだ。
 
そのぬいぐるみはお母さんハリネズミの背中に子どもハリネズミが2匹、
マジックテープでくっついており、べりベリッと剥がすことが出来た。
 
ちょうど今の孫ぐらい、お座りができるようになった長女が、
ハリネズミのお母さんとこどもを両手に振りかざして写っている写真が残っている。
 
一昨日、ソニプラの中をウロウロしていた時、ブログの写真のハリネズミを発見し、
あの時の娘が急に脳裏に浮かび、思わず手に取ってしまった。
 
店中のハリネズミを見比べ(コーナーコーナーに飾ってあった)、
1番顔の可愛い子を選び、ラッピングしてもらった。
同じように作ってあっても、ほんの少しの目の位置や鼻のとんがり具合で
可愛さが違うので、選ぶ方も真剣だ。
 
最初、生後半年でわかるかなと心配だったが、
渡してみるとふわふわな毛並みの触り心地と、お手頃な大きさがよかったようで、
ひとしきり興味深げにいじったり舐めたりしている。
 
しかし、あんなに真剣に見比べた顔にはまったく興味がないらしく、
もっぱら、脇腹についているツルツルの生地のタグが気になる様子で、
難しい顔をして見聞し、舐め回し、
遂には写真のように自分がハリネズミみたいな恰好になってしまった。
 
娘が出掛けている間の出来事なので、
いつバウンサー(椅子)から転げ落ちるかも知れないという危うい姿勢の孫を
左手でカバーしながら、動画を撮ったり写真に収めたり・・・。
 
今日という日は2度とこないからと、今を切り取ることに夢中になった。
 
他に現在、孫の興味のあるものといえば、
始まって約1ヶ月の離乳食がある。
 
まだ、お粥と野菜スープとスリスリリンゴとバナナぐらいのものだが、
何と言っても気に入ったのは安納芋の焼き芋だというから、さすが女子である。
 
スリスリリンゴは口に入れた途端、酸っぱい表情になって、
食べたい気持ちと酸っぱさの両方で複雑な顔をするが、
その点、安納芋は甘いので「もっとくれ~」のお口になる。
 
女の子なので、いちいち泣いたり騒いだりしないので、
いろいろ試す大人の方も実験みたいな気持ちで、面白がって取り組める。
 
長女の時は食が細くて細くてとても苦労したので、
何とか孫は好きなものをたくさん覚えて、モリモリ食べる子であって欲しい。
 
見ていると30数年前の子育ての思い出がよみがえるが、
今はちょっと客観的というか他人事として楽しむことが出来る。
 
こうして世代交代の営みが繰り返されることに感慨を覚えるとともに、
当時のことはほとんど忘れているので、
新鮮な気持ちで生後半年とはこんなだったかと観察している自分がいる。
 
月末には今度は実家に泊まりがけで来るというから、
何を食べさせたら食べてくれるだろうとワクワクする。
 
そう、
ハリネズミみたいな小動物志帆に興味津々なのは、
何を隠そうオーママの方なのである。
 

2017年12月9日土曜日

銀杏の会 田園調布のサロンにて

 
 
 
 
 
 
5回目となる銀杏の会が、田園調布にあるみぞえ画廊で始まった。
 
銀杏の会の始まりは銀杏忌の会と言い、
版画界の巨星・駒井哲郎氏が亡くなった約40年前に遡る。
最初は駒井哲郎さんを偲んで始まった会で、集まるメンバーも何らかの形で
生前の駒井哲郎とご縁のあった人ばかり。
 
版画を教えてもらったことがあるとか、芸大の先輩後輩だったとか、
同じ会に所属していて切磋琢磨したとか、
私のように大学の学内でお目にはかかったけど、
結局、教えを請うことはなかったとか・・・。
 
しかし、その会も33回忌を迎え、だんだん、生前の駒井哲郎には会ったことも
見たこともないという人が増え、
偲ぼうにも知らない人ばかりになってしまったのを機に、
名前を銀杏の会とし、今の形に変化した。
 
現在は田園調布にある日本建築の大邸宅の中に画廊機能を持ち込み、
みぞえ画廊と称して、展覧会や絵画の売買が行われている画廊で、
年に1回、この時期に展覧会が催されることになった。
 
作品は邸宅のお部屋のそこここに飾られ、
ギャラリー空間としての部屋はない。
 
時期は銀杏忌の会、つまり、駒井哲郎が亡くなった日にちと重なるので、
田園調布の銀杏並木も黄金色に色づき、散り敷いた銀杏の葉で、
黄色い絨毯になっている。
 
今日はオープニングパーティだったので、
今回のテーマ『贈り物としての作品展』にちなみ、
獨協大学の教授・青山愛香氏による『デューラーのメランコリアを読み解く』という
講演が2時から1時間、行われた。
 
『デュ-ラーのメランコリア』は 
メランコリックな表情やしぐさといえば、ほおづえをついて、1点をみつめるポーズを
思い浮かべる人も多いと思うが、
正にそのポーズをとった女性が描かれ、周囲に大工道具や計量にまつわる道具が
描かれているのにはどんな理由があるのか、
そんな銅版画の名作中の名作について講義があった。
 
デュ-ラーはこの作品を持ち歩き(版画なので複数枚プリントできる)、
宿代や飲食代の代わりにプレゼントした、
そんなエピソードから『贈り物としての作品展』にちなんだ講義として選ばれたらしい。
 
結構、難しい内容だったが、聴いているお客さんは田園調布界隈のマダムか、
おじいさんがほとんど。
 
この展覧会に版画作品を出品している作家は33名だが、
作家でオープニングパーティにきていたのは10名程度。
 
私はこれで3回目だが、今年が1番作家が少なく、何だか見知った顔がわずかで
ちょっとがっかりだ。
 
余興の後半は、ガラリと雰囲気が変わり、
ボサノバトリオによる演奏が1時間。
 
りおさんというボサノバの歌手と、コントラバスとギターの3人によるセッション。
 
「美しき人」「イパネマの娘」「マシュ・ケ・ナダ」「黒いオルフェ」など、
聴きなじみのある曲をしっとりとした声と静かでリズミカルな伴奏で聴かせてくれた。
 
3回目なので、もはやその日本建築の中身には驚かないが、
周囲の雰囲気といい、品のいいおば様達といい、
私など何とも場違いな感じが否めない空間で、心地よくボサノバの曲にスウィングし、
演奏の後、その場を辞してきた。
 
本当はその後、関係者だけが残って、
近隣の奥様方手作りのお料理をいただけることになっていたのだが、
今年は講義とサロンコンサートだけで、丸2時間かかってしまったので、
これ以上、ここでご飯をいただいていると、自宅のご飯当番ができなくなると思い、
やむなく一般の方と一緒に外に出てきてしまった。
 
帰りがけ、画廊の社長に
「お客様、よろしかったらカレンダーを」と言って、
画廊が作った来年のオリジナル・カレンダーを手渡されたから、
風体からして、決して作家だとは思われず、
一般のお客さんだと思われたのだろう。
 
作家としての知名度のなさに打ちのめされ、
逆に田園調布っぽいのかと、内心、ホッとしている自分もいた。
 
実は版画家とか、絵描きにしかみえない、どこか社会人として欠けている感じは
好きになれないので、
その対応には嬉しいような寂しいような複雑な思いがある。
 
しかし、結論から言えば、来年からはこの展覧会に私は参加しないだろう。
 
みぞえ画廊という素人経営の画廊の企画展、
運営サイドの人達の展覧会や作品や作家に対する考え方や取り組み方に
熱意が感じられないからだ。
 
作品と作家の顔を一致させようとか、興味をもって作品を勉強しようとか、
お客さんに売り込もうとかの姿勢が全くない。
 
すでに著名な先生にだけ、ペコペコこしてる様はみっともないの一語に尽きる。
 
ご飯を食べ損なったうらみで言っているのではない。
 
田園調布の大邸宅のサロンにあぐらをかいていては、
画廊としての明るい未来はないと言っているのだ。
 
私にとって、駒井哲郎先生もはるか彼方になってしまったし、
銀杏の会も、銀杏忌の会とはまったく別物になってしまった。
 
帰り道、カサカサと道に散り敷いた銀杏の葉を踏みしめながら、
初冬の風が身に染みた夕暮れであった。
 
 
 

2017年12月5日火曜日

作品収蔵 決定

 
 
今年の2月、
中国の国際版画展に出品するために中国に送ってあった作品2点が、
Chaina Printmaking Museumなる美術館に収蔵されることになった。
 
この展覧会はガンラン国際版画ビエンナーレ展といい、
2年に1度、中国のガンランという都市で開催されている。
 
私が所属している版17という版画家グループのひとりから、
展覧会に出品するためのエントリーフォームが、
メールに添付されて送られて来たので、
英語の長文読解の末、何とか写真の2点の作品を中国に郵送した。
 
それが2月の真ん中辺りで、まだ、その頃は帯状疱疹の傷も癒えておらず、
痛みも残っている時期で、
痛む脇腹を抱えながら、荷造りしたのを覚えている。
 
展覧会は5月半ばから6月半ばに開催されているはずだが、
観に行ったわけでも、賞を取ったと連絡があったわけでもないので、
ただ、作品が返却されてこないので、
入選して展覧会場に飾られているかなとは思っていた。
 
その後、展覧会のことは忘れていたが、
1週間前、私が友人と東北に旅行している最中に、
スマホに長い英文のメールが届いた。
 
最初にガンランの英語表記の文字があった時、
何かな?とは思ったが、スラスラ英文を読む時間も英語力もなかったので、
そのままにしていた。
 
すると、3日後、また同じ内容とおぼしきメールが送られてきた。
 
さすがに何だろうと、一生懸命読んでみると、
「あなたの素晴らしい作品のお陰で、今回の展覧会も無事、成功裡に終わった」と
中国らしい持ちあげようで、その文章は始まっていた。
 
「今回は世界中から4054点の応募があり、354点の作品が選ばれた」
 
「展覧会後は、あなたの作品『RAN』と『EN』を、China Printmaking Museumの
収蔵作品にしたいので、寄付するか、最低価格を提示して欲しい。」
 
「ただし、あなたの提示価格が高すぎた場合は、作品を返送するしかない」
 という内容が、もう少し丁寧な文章で書かれていた。
 
よく読むと脅迫されているような気もしないではないが、
国際的な大きな美術館への収蔵では、寄付してくれと言ってくるのは
よくある話だ。
 
下手な額を提示して、予算に合わないと突き返されては大変なので、
この名誉ある「美術館収蔵」の機会を逃すまいと、
早速、「光栄です。寄付させてください」と返信した。
 
以前、日本を代表する版画家のおじいちゃんから、直接、電話をいただき、
「今回の展覧会で作品を欲しいと思ったのは、あなたの作品だけだよ」と言われ、
コレクションの1枚にしたいんだけど価格はいくらかと訊かれ、
何も知らない私は上代価格は20万円だと答えたところ、
「そりゃ高くて買えない。残念だけど、あきらめるよ」と言われたことがある。
 
それを版画協会の上の人に話したところ、
「それは光栄です。ぜひ、寄付させてください」って言うんだよと、諫められた。
 
その事件以来、誰かから、直接、収蔵したいと申し出られたことはないので、
(版17で出品した台湾やチェコの美術館に、
そのまま展覧会後に収蔵になったことはあるが・・・)
今回のメールを見た時、思わず、「寄付します!」と答えてしまった。
 
というわけで、写真の2作品は、
中国の版画美術館に収蔵されることが決まった。
 
たぶん、一生のうち、その美術館に行くことも、収蔵作品を見ることもないだろう。
 
それでも海を渡ってお嫁入りした作品があることを誇りに思うし、
時折、今頃、どうしているかななんて思いを馳せることだろう。
 
 作品は我が子同然、
娘が国際結婚したような気分なのだ。

2017年12月4日月曜日

シネマ歌舞伎 『め組の喧嘩』

 
桜木町のブルグ13でシネマ歌舞伎『め組の喧嘩』を観てきた。
 
通常、シネマ歌舞伎は東銀座の東劇で観ることが多いのだが、
今日に限って、ブルグ13では歌舞伎の解説者の解説付きの上映だったので、
桜木町で観ることにした。
 
この作品は平成24年の5月に浅草に建てた平成中村座で上演されたもの。
 
しかし、同じく平成24年の12月に勘三郎は亡くなってしまったので、
これが最後の舞台となってしまったという作品だ。
 
当時、私も一度は平成中村座の公演を観に行きたいと思っていたが、
チケットが全く取れず、その内、またトライしようと思っている内に、
勘三郎が亡くなってしまったので、「あの時何が何でも観に行けばよかった」と
悔しい思いをしたことが思い出される。
 
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるが、
この作品は正にその言葉を象徴するような火消しの男達と、
もう一方で江戸のいい男を代表する相撲取りとの喧嘩が題材になっている。
 
粋でいなせで、けんかっ早い男衆は鳶職が本業でいざという時は火消しをする。
そんな集団が江戸には48組もあったという。
その内のひとつ、め組の組頭が勘三郎、
血の気の多い若い衆の頭が当時の勘九郎、
相撲取りに当時の橋之助。
 
酒の席の小競り合いが長じて、男と男の意地がぶつかる大喧嘩になり、
死をも覚悟して、火消し衆と関取衆が取っ組み合う中、
最後は梅玉演じる焚き出しの元締めが仲裁に入り、幕になる。
 
そして、平成中村座の舞台の向こう側が開くと、
そこにはスカイツリーがそびえ立ち、
折しも三社祭の御神輿をかついだ男衆が舞台に入ってくるという演出だ。
 
平成中村座がニューヨークで公演したときは、
おなじく向こうの壁が開くと、ニューヨークのポリスがなだれ込んできて
公演内容の捕り物とクロスオーバーするという演出だった。
 
それが『め組の喧嘩』では、ご当地浅草らしい祭り囃子と御神輿で
江戸時代と現代とがクロスオーバーした。
 
そんな粋でいなせで遊び心あふれる舞台が好きだった勘三郎。
病気を抱えていたせいか、玉の汗を吹き出しながらの熱演で、
観客を楽しませよう、一体となって感じて欲しいという思いが、
ガンガン伝わってきた。
 
やっぱり、生の舞台で観たかったなという思いと、
ようやくあの時観たかった舞台が、こうしてシネマで観られたという思いが、
同時にやってきて、
その舞台のパワーに力を得て、何だか元気をもらった気がした。
 
舞台を観ながら、勘三郎という人そのものが、
粋でいなせでけんかっ早くて、
ついでに、生き急いで逝っちまったんだなぁと思った。
 
 

2017年12月3日日曜日

久々の飾り彫り

 
 
1ヶ月ぶりに彫刻刀を握って、途中だった新作の彫り作業を進めた。
 
夏から秋にかけ、例年より頑張って版画家業にいそしんでいたのに、
なぜか11月に入って、ぱったりそれがお休みモードに入ってしまった。
 
11月始め、娘と孫が3泊4日で泊まりに来たのを機に、
アトリエを掃除し、木くずや絵の具のない状態にしたせいで、
気分的に途切れてしまったものと思われる。
 
今日はさすがに何とか取り戻さねばと、日曜日だというのに彫り台にかじりつき、
作品のメインパート、藁の船の飾り彫りに着手した。
 
この作品は初孫が生まれて、
赤ちゃんがもたらす幸福感や生命の神秘、
次世代に受け継がれていく命のバトン・・・など、
そのすべてが新鮮に感じられた感動を具現化したもの。
 
藁の船はその小さな命を抱きとめるゆりかごであり、
天国からおりてきた船をイメージしているので、
作品のメインモチーフである。
 
一昨日、娘にベビーシッターを頼まれ、生後約6ヶ月になった志帆に会ってきたが、
いつもニコニコ笑顔の安定した情緒、
笑えるほどプリプリもちもちの腿やふくらはぎ、
叫び声とも話し声ともつかない大きな声のおしゃべり、
始めたばかりの離乳食で、酸っぱさに顔をしかめながらもすったリンゴを食べる様子、
どれひとつとっても可愛いし愛しい存在だと再確認した。
 
そんな半年間の成長ぶりと、半年前の初めて会った時の感動をすり合わせながら、
この作品で何を表現するのか、
色彩はどんな感じにするのか、
ひとりアトリエで考え続けた。
 
かたわらでアルゼンチンタンゴのCDをかけながら、
こうした時間こそが本来、自分が大切にしていた時間だったと自省した。
 
季節は12月に入り、あとひと月で2017年も終わるかと思うと、
ただそれだけで気ぜわしい気分になるが、
12月前半でこの作品の彫りをすべて終え、
新しい年を迎えられたらと思う。
 
それにしても、2年前、首筋を痛めた影響で、左腕に再発した神経痛が毎日、痛い。
 
温泉に行っても、美味しいものを食べても、
版画から離れて力仕事をしなくても、痛みはひかない。
 
何か病を得て、それとつきあいながら生きていくのは辛いものだ。
 
多かれ少なかれ、人は肩が凝っただの腰が痛いだの、
もっと重篤な病が身に降りかかったりしながらも、
それでも生きている。
 
自分も病を得ることで、人の痛みがわかる大人にはなれるのかも知れないが、
生きるモチベーションが下がるのは困りものだ。
 
この痛みを何とかやっつけて、
気兼ねなく新作に取り組める日がくることが、今の1番の願いだ。
 
一応、気休めに叫んでみるか。
 
「ちちんぷいぷい」
「痛いの痛いの、飛んでいけ~!」
 

2017年11月29日水曜日

温泉三昧 美味三昧

 
 
 
 
 
命の洗濯と称して、古い友人とふたり、2泊3日で山形と宮城の温泉宿に行ってきた。
 
1泊目が山形県あつみ温泉の萬国屋、
2泊目が宮城県秋保温泉の佐勘。
 
いずれも五つ星の宿というふれこみではあったが、圧倒的に佐勘の方がよかった。
 
旅の目的は観光ではなく、ただひたすらに温泉に浸かって、
美味しいものをいただいて、友人としゃべり倒すこと。
 
観光は中日の致道舘という藩校とニッカウヰスキーの工場見学だけで、
あとは新幹線で東京から郡山まで行き、バスに乗り換え260㎞、
午後3時半とか4時には2日ともお宿に到着し、あとはフリータイム。
 
6時の夕食時に大広間に行くことさえ守れば、
館内にある何カ所かのお風呂に何回入っても、お部屋でくつろいでも自由という
何もしないで食べては温泉に入るのが目的の自堕落な旅だ。
 
いつもは豪華列車に乗るだの、何とか祭りを見るだの、
お宿の他にはっきりした目的があったが、
こんなゆるゆるした旅もいいものだ。
 
しかし、他に目玉がない分、お宿自体のクオリティには厳しくなるわけで、
お料理のお味や素材、器の選び方、食事処の雰囲気など、
全ての点で佐勘は素晴らしかった。
 
秋保温泉の佐勘は、1500年ほど前、皮膚病に悩む時の天皇の病を治したことから
「御湯(みゆ)」の名前をいただき、以来、土地の湯守として佐藤勘三郎が宿を営み、
今日に至るという千年続く温泉宿。
 
現在の佐藤勘三郎さんで34代目というから驚きだ。
 
秋保温泉は日本の三大名湯のひとつだそうで、
割合さらりとした泉質ながら、美肌の湯の名に恥じぬ、
肌にまとわりつく感じで、
体の芯から温まるいいお湯だった。
 
夕食は結婚式場にも、2016年のG7の会場にも使われた立派なお部屋で、
同行のメンバーととはかなり離れてテーブルが配置され、
団体旅行感がなくとてもよかった。
 
これは一体何かしらと仲居さんに質問する食材がいくつか使われていて、
その土地ならではの食材や調理法で楽しませてくれる懐石料理だった。
 
朝食もとても1回では制覇できない種類のバイキング形式で、
私は和朝食になるよう野菜中心のお総菜を何種類もとってきたが、
中でもわたり蟹のお味噌汁は絶品だった。
 
こんな贅沢、たまにはいいか。
 
何か自分にご褒美をあげなきゃならないほど、
苦労したとか忙しかった覚えもない2016年の秋だけど、
ここらで命のストレッチをして、
あと1ヶ月、今年も頑張ろうと思う秋の夕暮れ。。。