2024年3月14日木曜日

静かなる彫りデー

 








今日は春らしい穏やかな晴天。
最近、寒い日や冷たい雨の日が多かったので
とても気分まで晴れやかだ。

三寒四温とはよく言ったもので、
今週末まで温かい日が続いて
桜の開花まで一気にいきそうな勢いだ。

今日の私の予定は夜に1本カウンセリング。
それまでの日中は
HPのブログをアップすることと
このブログをアップすること以外は
目下、制作中の木版の彫りをすること。

以前、カウンセリングをしていなかった頃は
よく土日の休みの日に
木版の彫りをしていることがあって
娘に「ママのホリデーは彫りデーだね」と
言われていたが、
最近はカウンセリングが土日にも入っていて
ホリデーが定まらない。

一応、ネット上では
日曜日がお休みになってはいるが、
クライエントさんの中には
土日しか来られない人もいるので、
案外、土日にカウンセリングのことも多い。

今日はそんな中、
日中、家にずっといることになったので
じっくり彫り台の前に座り込み、
最新作の彫りをした。

新作は3点連作の小品で
展覧会を見据えた「おみやげサイズ」

お客様の手の出しやすいミニ作品で
当然、価格もお手頃になる。

モチーフは紫陽花で
「雨のシリーズ」ではあるが
雨のない紫陽花
雨が遠景シルエットの紫陽花
雨がメインモチーフの紫陽花
という3パターン。

いずれも紫陽花の花は
ひとつかふたつしか出てこない。
廊下とかどこかのコーナーとか
トイレにでも飾っていただければとと
思って創っている。

一方、目下、読んでいる小説がある。
原田マハ作「板上に咲く」

棟方志功とその妻チヤの物語。
出会いから、結婚、
棟方志功が柳宗悦らに見いだされ、
版画家として成功していくまでが
書かれている。

大昔、映像で見た版木に顔をくっつけるように
して彫る棟方志功の版画にかける想いと
夫を見守り、
そばに寄り添い手助けし続けた妻。

戦前戦中の時代の空気感と
ひとりの貧しい青森出身の青年が
がむしゃらに生きた人生。

全編、会話が東北弁で書かれているので、
尚、臨場感が増す。

と、同時に
同じ版画家でも自分にはあんな
ハングリーさはないなぁという思い。

小器用にあれもこれもに手を出して
あれもこれも体よくまとめ、
よく言えば、ファジーと言おうか
バランスがいいと言おうか
結局、器用貧乏な自分を思い知る。

〇〇バカにはなれないのは性分なので
今更、変えることはできない。

ひとつのことしか見えない男と、
そんな男に惚れこんで
一途に支えようとする女。

どちらにもハマらないなぁなどと
考えながら、
目の前の版木を静かに彫った。

志功は元々、弱視で
途中から、片方の目の視力を
ほとんど失い、
版に目をこすりつけるようにして
彫っていた。

時折、彫刻刀が版木を支える手をかすめ
血がほとばしることもあったという。
それでも、板面を血で赤く染めながらも
彫り続け、
その姿は何かにとり憑かれたようだった
とある。

聴力を失っても尚且つ、作曲した
ベートーベン。
ほとんどの視力を失っても
版画を制作し続けた棟方志功。

その生業にとって大事に体の一部を
差し出さなければ
到達できない境地だとしたら、
残念ながら、私は恵まれすぎている。

しかし、今年の「文学と版画展」の
1冊として
「板上に咲く」を選んで
自分の紫陽花の花を装丁に使う案は
悪くない。

そんなことをつらつら考えながら、
うららかな春の1日、
静かに彫りデーが過ぎていった。













2024年3月11日月曜日

ある死生観

 


昨日、偲ぶ会に伺ったヒデ先生は
素晴らしい死生観の持ち主だった。

スクリーンでは在りし日の先生が映し出され、
最後に舞台に立たれた時の
スピーチとダンスが披露された。

その中でマイクを手にした先生は
今の病状と死に対する思いを語られた。

先生は肺がんで亡くなられたのだが、
それは肺がんの再発によるものだった。
再発が分かった時にはすでにステージ3で
手術は不可能、
余命は半年という宣告を受けたという。
その時、先生はまだ71歳。

医師からその宣告を受け、
先生はこう考えたという。

「QOLは生活の質という意味だけど
自分のQODを考えてみた。
QODは、Quality Of Death=死の質
(そんな言葉はないが…)
あと半年、
病院に入って緩和ケアを受けながら
死を待つのがいいか、
多少、生きている時間が短くなっても
最後の最後まで踊り続けているのがいいか。

自分は最後まで好きなことを
やっていたい」と。

ダンサーの鶴世夫人には
「酸素ボンベ背負って踊っていたら
かっこいいんじゃない」と
笑って言っていたという。

「半年と宣告されたのは悪いことじゃない。
いつ死ぬのか分かれば
それまでに何をしようか考えられるし、
悔いなく日々を送ろうと思える」

「死ぬことは怖くない。
前世があったように
生まれ変わることもできるだろう」

「僕は最後にいう言葉も決めているんだ。
「おやすみなさい。またね」って
言うつもり」

本当のところは分からないが
こんな風に軽やかに死を受け入れられたら
いいなぁと思った。

ご臨終の際に病院に駆け付けたという女性が
会場で挨拶に立ち話してくれた。
「鶴世さんから連絡があって、
車で病院に駆け付けた時、
ヒデ先生は今まさに旅立とうとしてました」

でも、鶴世さんが耳元で
「〇〇さんが来てくれたわよ。
判る? ヒデさん、目を開けて!
記念写真を撮りましょう!」といって
ヒデ先生を挟んで3人の写真を
鶴世さんのスマホで自撮りしたという。

ふたりは最後の最後まで踊り続けていたし、
天国に旅立つ瞬間も
まるで「いってらっしゃい」とばかりに
送り出したという話を伺って、
鶴世さんは本当に強い人だなと思った。

遅い結婚で子どものいなかったおふたり、
10歳の年の差婚だったけど、
まさにパートナー同士だったんだなと思う。

死は誰にでも訪れる免れないものだけど、
いかに受け入れ、
その日までをいかに過ごすのか。

昨日今日は
いつにも増して考えさせられた。

まずは1日1日
丁寧に真摯に生きよう!!
ご飯もしっかり味わって、
今日あることに感謝して!!


タンゴの恩師を偲ぶ会

 
















合宿の時の集合写真
ヒデ先生のすぐ後ろに写っているのが私


コロナ禍が始まる前、
3年間ほどアルゼンチンタンゴを習って
いたことがある。

鶴見大学の生涯学習のクラスで
「アルゼンチンタンゴの歴史とダンス」という
タイトルの講座で
講座の前半がタンゴの歴史や音楽鑑賞で
後半がタンゴレッスンという
珍しい構成だったので
興味をそそられ受講した。

なぜ私が興味をもったかというと
その当時、
参加していた版17というグループで
近い将来、ブエノスアイレスで
グループ展ができるかもしれないという
話がでて、
現地に行くなら、タンゴを踊れたら素敵かも
というミーハーな好奇心が発端である。
(結局、展覧会は実現しなかったが)

その頃から(今もそうだが)私は
ヴァイオリニストの石田様のファンだったので
アルゼンチンタンゴ界の異端児ピアソラの
曲は大好きでよく聴いていた。

どうやらこの講座を受講すれば
ピアソラについても解りそうな感じだった。
それに、以前、フラメンコをかじった身として
次はタンゴにも挑戦したいという思いがあり
『一粒で二度おいしい』みたいな
この講座は魅力的だった。

その講座の前半の講義担当が
鶴見大学文学部教授のヒデ先生。
後半のダンス担当が
奥様でダンサーの鶴世先生だった。

ヒデ先生は大学で教鞭を執る傍ら
趣味でアルゼンチンタンゴを
鶴世先生について学ぶ内に
鶴世先生のダンスのパートナーになるほど
上達し、更に結婚までしてしまったという
異色のカップルだ。

私はその講座に通い、
それなりにダンスも踊れるようにはなったが
何と言っても
ピアソラについていろいろ学べたのが
収穫だった。

先生は私のピアソラ好きに配慮して
講座内容にピアソラ関連をたくさん
盛り込んでくださった。

しかし、踊りの方はというと、
タンゴは男性と組んで踊るので
男性のリードがあって初めて成立する。

フラメンコはひとり踊りだったが、
タンゴの男性のリードありきの踊りには
せっかちな私はなじめないところがあり、
自らがステップを踏み出しそうになる度
注意されていたのを思い出す。

なにしろ生まれてこのかた
男性のリードで動いたことがないので、
一緒に講座をとっている
音感の鈍いオヤジと組まされたりすると
つい勇み足になってしまうのだ。

それでもヒデ先生と組むと
とても優しい包み込むようなリードで
女性を運んでくれるので、
自分の実力以上にうまくなった気がして
とても楽しかったことを思い出す。

特に那須にある大学の寮に合宿して
2日間踊りあかした時は
ヒデ先生と組んで、
ある種、トランス状態になるほど
自然で滑らかに踊ることができた。

あの境地は忘れることはないだろう。

そんなヒデ先生が
昨年9月に肺がんで亡くなった。

私は講座を辞めて久しかったので、
全く知らずにいたのだが、
ある日、鶴世先生からのLINEで
偲ぶ会をするという連絡を受けた。

昨夜はその偲ぶ会に伺うために
ミューザ川崎の市民交流室まで行ったが、
ミューザ川崎シンフォニーホールは
何度となく石田様のコンサートに
行っている場所だったので
何かご縁のようなものを感じた。

偲ぶ会は先生の在りし日の映像、
学生時代と同僚のご友人のあいさつや
何組ものダンスで構成されていた。

最後はピアノとバンドネオンによる演奏で
曲目は
ピアソラの「オブリミオン」と
「アディオス・ノニーノ」だった。

「オブリミオン」は私も自分のお葬式で
かけてほしいと思っていた曲だし、
「アディオス・ノニーノ」は
ピアソラのお父さんがなくなった時、
父親に捧げた曲だ。
「オブリミオン」はピアソラの曲の中で
私が一番好きな曲。

在りし日のヒデ先生にリードされて
「オブリミオン」を踊った感触が
蘇ったようで
胸がキュンとなった。

鶴世先生以外
ほとんど知る人のいない偲ぶ会。

ひとり異邦人のような気分で参加していた
私に
ヒデ先生が「大丈夫かい」と手を差し出し
次のダンスに誘ってくれたような気がした。

ヒデ先生のご冥福を祈ります。


































2024年3月6日水曜日

もうすぐ1年生

 





















昨日は3月最初のばぁばご飯。

ここ数年、お雛祭りの直前のばぁばご飯の時は
雛人形と菱餅の形のお寿司やキンパなど
工夫をこらしたひな祭りのお祝いご飯で
盛り上げてきたが、
今年はそれは無し。

子ども部屋には2台の勉強机が設置され、
雛人形はぎりぎりに出され、
3日が過ぎれば、さっさと撤収。
今はその場所にエレクトーンが鎮座している。

娘も新しい勉強と転職活動に忙しく、
私も2月のカウンセリングが忙しく、
何ごともなかったかのように
3月3日のひな祭りは過ぎていった。

その代わり、子ども部屋には
真新しいランドセルがある。

1年生になるために買いそろえた文房具には
すべて小さな名札シールが貼られ
4月の入学式を待つばかり。

保育園児2人の生活は
ひとりが小学生になるだけで
大きく様変わりしようとしている。

今回のばぁばご飯のリクエストも
通常と同じ感じできていたので、
こちらもいつも通りの時間に行って
いつものように9品作って
みんなの帰りを待った。

本日のばぁばご飯
「鶏手羽元のオーブン焼き」
「豚肉のソテー アスパラときのこのせ」
「カリフラワーのグラタン」
「卵の巾着の甘辛煮」
「白菜と豚肉の長ネギレモンソース」
「小松菜と揚げの含め煮」
「大根のじゃこのせサラダ」
「サーモンと野菜の中華炒め」
「中華風春雨スープ」
以上の9品

以前から何十年も作っているので
おふくろの味すぎて
名前がよくわからないようなものから、
娘が探してきた新しいレシピまで
ごちゃまぜである。

その中には孫1号と2号のリクエストも
入っているので、
それがやがて「おふくろの味」ならぬ
「オーママの味」として
定着するのであろう。

以前は、食事中に私がスマホをむけると
孫1号はすぐにポーズをとって
作り笑顔をしてくれたのに、
ここ最近はあまりサービスしてくれなくなって
ちょっと寂しいオーママである。

孫1号の志帆がまだ歩けない頃、
娘の育児休暇が明け、復職したのを機に
ばぁばご飯は始まった。
あれから、早丸々6年の歳月が流れ
その間、ずっと私は月3回、
ばぁばご飯を作りに娘宅に通い続けた。

その間に孫2号の由依も生まれた。

時の経つのは早いもの。

他人の子は早いというが、
自分の子ではないものの
孫の成長も本当に早い。

真新しいランドセルにいろいろ詰めて
真新しい生活の始まる志帆。
お姉ちゃん大好きでいつも一緒にいて
くっついてまわっていた由依も
4月からはひとり立ちせざるを得ない。

さあ、どんな新生活になるのやら、

今年の春の我が家は
ひとつの区切りの春。
ばぁばご飯で温かく見守りたい。

私もこの春、
区切りの誕生日を迎える。

やれやれ、歳をとるはずだ。










































2024年3月1日金曜日

真夜中のポインセチア

 
















久しぶりに徹夜で本摺りをした。
ポインセチアの作品なので、
『真夜中のポインセチア』である。

写真の色味が実物より暗く
やや濃い赤みがかっているが、
もう少しブルーグリーン寄りの
明るくて強い感じの作品だ。

なぜ、
老体にムチ打って徹夜を決行したかというと
天気予報では雨は夜半過ぎに降り出し、
夜明けごろには上がると
言っていたからだ。

私は昨日の夕方6時から
1本カウンセリングが入っていて
下界に降りたのだが、
行きは大丈夫だったが
帰りにポチポチと雨が降り出した。

それが夜半過ぎにはだいぶ激しくなり、
そうなると
気分的には「今、摺りたい」となる。

部屋の空気が湿気ていることが必要な
木版の本摺りの時だけは
いつもは晴れ女である私も雨乞いをする。

雨音を聴きながら、
「雨はいつか雪に変わるだろう♪」なんて
悠長なことを言っている場合ではなく
「いつ摺るの、今でしょ」という声が聞こえ
とにかく、寝る前に1版だけでも摺ろうと
摺り台の前に座った。

和紙の湿しと絵具の調合は
午前中に済ませてある。

そして、1時間半ほどかけて
ポインセチアの何色かグラデの入る
メインの赤い花の部分を摺り、
一旦、布団に入った。

しかし、版画も気になるが、
夕刻のニュースで見た
「大谷翔平、結婚!!」の速報が
ショックで全く寝付けない。

いい歳をしたおばさんでも
「うそ!誰と!いつそんなことに?」など
矢継ぎ早に疑問と落胆が押し寄せた。
まさか
羽生君に二の舞にならないでしょうねと
誰と結婚したかも知らないくせに
余計な心配が頭をよぎる。

そんなに心配で眠れないなら
いっそ起きて摺りを始めた方がいいのではと
思ったのが徹夜の始まりである。

真夜中にポインセチアの赤は
あまりにも鮮やかで
バックにかけているサザンの曲は
あまりにも切ない。

しかし、雨音を聴きながら
静かに進む作業はスムーズで
4時半ごろには峠を越した。
黒い葉っぱを摺り終えたところで
体力の限界がきて一度筆を置いた。

3時間ぐらい寝ていつもどおりに
起きようかと目覚ましをセットしたが、
「もしかして、大谷のインタビューが
もう始まっているかもしれない」と
心がざわついて
体は疲れているのに、興奮して眠れない。

それでも無理はせずに布団の中にいて
朝のニュース番組を見て
大谷の結婚の事実に
今は一挙に「大谷ロス」の気分である。

まあ、大人女子としては
そんなことで会社を休むなんて
ありえないので、
しぶしぶ残りの版の摺りを再開し
午前中には摺り終わり、
水張りをし、写真撮影も終えた。

9枚湿して、9枚無事出来上がった。
幸い、
心の動揺は摺りに悪影響は及ぼさず
きれいに摺りあがったし
好みの作品になったといえよう。

1日遅れてしまったが、
2月中にうまくいければ
2点分の試摺りと本摺りを終えたいという
計画を遂行でき、
ミッション・クリアである。

今月は『NO.1』の称号getのお陰か
カウンセリングの予約が押し寄せ
いつもの倍近い件数があったので、
「マリア、大忙し」の巻。

そんな中、版画もつつがなく
摺りおおせたので
ホッと胸を撫でおろしているところだ。

やれやれ、お疲れ~。
今宵は友人と飲み会である。