2015年6月29日月曜日

歓喜の摺り増し

 
 
 
木版画の摺りには3種類ある。
ひとつは「試し摺り」
もうひとつは「本摺り」
そして、「摺り増し」である。
 
「試し摺り」というのは、木版画の版を創る彫りの作業をすべて終え、
次はいよいよ摺る作業に取りかかるという時に、まず迎える作業で、
文字通り試しにこんな色で摺ってみようかと思う色を版にのせ
実際に摺って作品に仕上げることをいう。
 
私の場合は版を彫っているときには色のことは案外考えていないので、
ここへきて初めて具体的な作品のイメージを具体化することになる。
 
試しに摺るといっても1作品何十色も使うので
もっとも神経を使うのが試し摺りといえる。
 
元々色の決まっているモチーフは赤いものは赤くするのだが、
赤といっても無限にあるので、どんな赤にするのか決めなければいけないし、
何色にしてもいいところはどんな色にするか作家のセンスが問われているので、
実は試し摺りが最もナーバスでアーティスティックだ。
 
1度で全体が決まらないことも多く、
部分的に違う色にして摺り直してみたり、
時には大きく出来上がりイメージを最初とガラリと変えたりもする。
 
次に「本摺り」は、
試し摺りの結果、いよいよこれでいけると自分の中で判断できた時、
仕切り直して体力をつけ、ある程度の枚数の和紙を準備して臨む本番の摺りである。
 
この段階はアーティストというより職人的な完璧さを求められていて、
複数枚を同じレベルできれいに摺り上げることが求められる。
 
元の作品の大きさによって1回に摺る枚数も決まってきて、
巨大なものは1日4枚が限界で、
中ぐらいなら6枚、小品なら8~10枚と、
自分の体力と気力と精度が保てる枚数を湿して、本摺りは行われる。
 
作品には
エディションナンバーという数字が分母にきて、分子はその内の何枚目かという
分数の数字が余白の左下にナンバリングされるのだが、
たとえエディションナンバーが30のものでも、最初に30枚全部を摺るわけではない。
 
そんなにタンスの肥やしを作っても保管が大変だし、
売れる当てもないのにむなしいだけだ。
第一、1日10時間が摺りの体力の限界なので、
この時間で摺り上げられる枚数を摺るということになる。
 
しかし、今日は嬉しいことに『華』という作品の「摺り増し」という作業を行った。
 
『華』はこの4月の個展の直前に創って、初めて発表した作品だ。
エディションナンバーは30。
 
『華』という赤い作品と、『凛』という青い作品との対のような作品なのだが、
本人も驚くほどに好評価をいただき、
個展とその後の紫陽花展というグループ展とで、計6組も売れてしまった。
 
この作品はメインの作品のミニ版ともいえる作品で、
還暦に感じたことを作品化したもの。
 
モチーフにグロリオサという百合科の花を使い、
本物と同じ色の赤い花を使った赤い作品と、
想像上の青いグロリオサを用いた青い作品とが対になるように創ったのだが・・・。
 
もちろん1点ずつの価格が表示されているが、
思いの外、組作品として飾りたいというご要望が多く、
あれよあれよと売約の赤丸シールをつけていただき、
今日までに6組が手元から旅立っていった。
 
しかし、この作品を摺っていた2月3月、
私は左腕の神経を痛め、実は相当ひどい神経痛に苦しんでいた。
 
摺りは主には右手にばれんを持って、畳に正座しうつむいた姿勢で
全身の力と体重を手元のばれんに集約して摺っていく。
 
右手にばれんを持っているとはいえ、
その激しい力加減のバランスをとっている左腕も当然使うので、
2月3月のあたりは2時間摺っては
2時間はふとんにつっぷして痛みの引くのを待つというような状態だった。
 
という調子で、『華』と『凛』はそれぞれ7枚の本摺りを仕上げるのが精一杯。
それでもそんなに7枚も簡単に売れるはずもないと余裕をかましていたのだが・・・。
 
それがあに図らんや、6枚ずつ嫁にいってしまったとなると
今手元にあるのは1枚ずつ。
 
もし、これを手放してしまうと、次の第2弾の本摺りの時に参考にする
モデルの摺り上がり作品がなくなるということになる。
 
そんなに世の中うまくいくとは思っていないが、
なくはない話だと思い直し、
今のうちに次の第2弾の本摺りをとっておくことにした。
 
「もしかしたら・・・次も」と期待に胸膨らませ、すでに嫁にいった6組に思いを馳せる。
だから「歓喜の摺り増し」なのだ。
 
今は神経痛もほぼほぼ治まっているので、
8枚ずつ摺ることにした。
(この1枚ずつ増やすのでもちょっと勇気がいる)
 
まず、今日は赤い『華』の方から。
日中、天気がよくなってしまいそうな予報だったから、
真夜中に摺りはじめることにし、
ゆっくり確実に作業を進め、午前中にはすべて摺り終えることが出来た。
 
幸い、心配していた神経痛が悪化することもなく、
パーフェクトな8枚が摺り上がった。
 
整体の先生は2月からずっと二人三脚で
この痛ましくも忌々しい神経痛の治療にあたってくださっている。
一応、黄金の左腕というわけではないが、
大事な左腕の痛みは摺りを終えてもなりを潜めてくれている。
 
あともう8枚、
あさって『凛』の摺りにも耐えてくれれば、
「ほぼ完全寛解」の呼び名を進呈してもいいぐらいだ。
 
もう一踏ん張り、頑張れ自分!
見せろ、横浜のなでしこ根性を!
 


2015年6月28日日曜日

『雪の轍』を観て

 
 
3年前の春、私達がみた雪がすこし降り積もったカッパドキアの風景
 
 
 
有楽町にある角川シネマで、昨日から上映されている『雪の轍』を友人と観てきた。
 
3年前の3月始めにトルコへ行った時、
カッパドキアでは雪が降り、
まるでシュガーレイズドされたような奇岩の風景にいたく感激した。
 
映画の舞台も同じような雪降るカッパドキアだと知り、
ちょっとしたセンチメンタルジャーニーのような感覚で
友人を誘い、この映画を観に行くことにしたのだが・・・。
 
『雪の轍』は
2014年のカンヌ映画祭におけるパルムドール大賞(最高賞)をとっているので、
そうした観点でもどんな映画なのか興味があった。
 
トルコ旅行は今回のイタリア旅行と同じ友人と行き、
カッパドキアで私達は気球にも乗ったし、
この映画の主人公と同じく洞窟ホテルにも泊まった。
 
だからきっとそこここに思い出深い風景や建物が映し出され、
トルコ語の語り、人なつこいトルコの人達が出てくるものと思っていたが、
映画はかなり暗くて、厳しい冬のカッパドキアの洞窟ホテルを中心に展開され、
テーマも人のあり方そのものに迫る重いものだった。
 
上映時間も3時間16分と相当な長さで
舞台はほぼ雪のカッパドキアの風景と洞窟ホテルの部屋だけ、
登場人物も主人公アイドゥンとその若い妻、
離婚したため一緒に住んでいるアイドゥンの妹、
他に4~5人のみ。
 
しかも、延々と言い争いのような会話が続いていく。
(トルコ人は議論好きなのかもしれないが・・・)
ものの考え方、捉え方の違う登場人物がそれぞれ自己主張する中、
暗く冷たく閉ざされた空間で、人間関係そのものががんじがらめになり、
しだいに息苦しくなっていく。
 
3時間越えの映画鑑賞にこちらのお尻も板のようになってきたと感じたあたりで
物語はようやく終盤の新展開を見せ、
最後は意外な結末を迎える。
 
誰かが撃ち殺されるとか、刺されるとかいう激しいシーンがあるわけでもなく、
誰も彼もが調和を保とうとしながら会話するも、
結局、誰もがあるところで我慢の限界を越える。
 
そんな劇中の危うい人間関係が、観ている私の心にも影を落としかける。
映画の登場人物は
私の見聞きしてきた人なつこい親日家のトルコ人とはまったく違う人々だったが、
「どこの国にもこういう人物はいるんだなぁ」と主人公アイドゥンの中に
自分のダンナとの共通点を見出し、ちょっとぞくっとした。
 
チラシの映画評はいずれも実に抽象的で、かつ絶賛しているが、
この映画が一般向けでないことだけは確かだ。
若い人には理解するのは難しいだろうと友人と意見の一致をみた。
 
頑固で融通が利かなくて、自分の価値観が絶対と思っている人が
近くにいる人は感情移入出来るかもしれない。
 
美しい雪のカッパドキアに対する興味だけで観に行くと
そのテーマの重さと会話の暗さに打ちのめされてしまうかもしれないので
くれぐれもお気をつけてご鑑賞あれ。
 
私は3年前、
美しすぎる雪のカッパドキアと人なつこい洞窟ホテルのホテルマンぐらいしか
見てこなかったんだと思うが、
今一度、トルコのアルバムをめくり、
最高に楽しかった10日間を思い出し、
ちょっとこの映画の暗さと重さを払拭しようかなと思う。
 
 
 
 


2015年6月26日金曜日

大和言葉は日本人の心得


 
仕事帰りに本屋さんに寄って、気になっている本を探した。
お目当ての本は見つかったが、パラパラめくって中身を少し見たら
あんまり買い求めるほどの食指が動かなかった。
 
しかし、その本の近くにちょっと気になる表題の本を見つけた。
『日本の大和言葉を美しく話す』
ー心が通じる和の表現ー
とある。
 
中を繰ってみると各頁に水彩画のかわいいイラストが添えられ、
「語らい」「もてなし」「手紙」「装い」「味わい」「学び」・・・など
大和言葉で表現するとこんなに雅になるし、
心持ちがよく伝わるという具体的な言葉が、シーンごとに紹介されている。
 
最初に飛び込んできた言葉のいくつかが
自分もよく使う言葉だったので、
これはもしかしたらただ使うだけじゃなく、わかって使い分けたら
もっと言葉を効果的に、しかも美しく使うことが出来るのではと思った。
 
日本語の単語は
大和言葉と漢語と外来語の3種類ある。
 
「山」「川」などは大和言葉だが、
「山地」「河川」など漢字の読みでいえば音読みで発音されるのが漢語。
 外来語はカタカナで表記される言葉。
 
「はじめる」は大和言葉で
「開始」が漢語、「スタート」は外来語ということになる。
 
しかし、そんな国語の授業みたいな内容に心惹かれたわけではない。
最初にでてくる「語らい」の項にでてくる
「このうえなく」「いたく」「こよなく」あたりを自分がよく使う言葉だったので
親近感を覚えたのだ。

例えば、
「このうえなく」は「最高に」とか「最上に」という意味だから
そうは早々出てこないが、
「このうえなく美味」みたいな表現は好ましいと思っている。
そこを「チョー美味しい」と言われてもねェ・・・という感じだ。

レストランなどでも「これ、めっちゃ美味しいよね」というより
「うわぁ、このうえなく美味~」みたいに、ちょっと茶化して言ってしまう。
 
「いたく」はもっと頻度高く使う言葉で、
「いたく感激した」とか「いたくおかんむりね」とかいう使い方を
口語でもよく使う。
 
「こよなく」は「このうえなく」と似て非なる言葉で
「こよなく愛する」という言い回しに使うのが一般的だと思うが、
実際,異性にそんな言葉を伝えたことはない。
 
しかし、案外、友人との会話でもちょっとしたユーモアのつもりで
「私はこれをこよなく愛しているわけよ」みたいに
好きなことや物を指して言ったりする。
 
だから本当の意味で上品な一時代前のご婦人のような使い方ではないわけだが、
言葉の響きとして大和言葉が好きなんだと思う。
 
また、手紙という伝達方法も大好きで、
個展の案内状や年賀状に一人ずつ、ひと言添えたり、
お礼状を出したりといった手書きの文書をやりとりすることがけっこうある。
 
そんな時は当然、大和言葉を使うことが多くなる。
 
手紙では「前略」とか「拝啓」みたいな紋切り型の出だしではなく、
自分で考えた季節の挨拶文が最初にくる。
例えば、今なら
「雨降りが続いて鬱陶しい毎日ですが、いかがお過ごしですか」みたいな感じ。
 
案外「紫陽花の花が目に美しい今日この頃・・・」みたいなわざとらしい感じより、
ストレートで正直な言い方が好き。
 
そして、必ずといっていいほど出てくる表現が
「お目もじ楽しみにしております」や
「朝から首を長くしてお待ち申し上げております」みたいな言い回しや、
「先日はお目にかかれて、楽しゅうございました」とか
「お忙しい中、個展にお運びいただき、ありがとうございました」とか
「いつもいつもお心にかけていただき嬉しく思っております」みたいな、
大和言葉を使った感謝の表現である。
 
文書という方法をとると
こうしたいかにも目上の方にしか使わないような言葉を
同年代の友人宛にも使えてしまうので、
あらたまった感じと
より心をこめて気持ちを伝えることが出来るような気がしている。
 
まだ、今日買って読み始めたばかりの本だけど、
言葉の美しい人、その人独自の感性で表現する言葉を持っている人、
字の美しい人にはかねてより憧れている。
 
私もそんな人になりたいと願っているし、
日本人なら身につけるべき素養のひとつだと思うので、
今からでも遅くないと信じて、
今日から「大和言葉の達人」を目指したいと思う。


2015年6月22日月曜日

目覚めよ日本人に

 
 
 
 
展覧会の類がすべて終わり、
イタリア旅行でいろいろショックを受けた反動で、
自分が日本人であるということを再認識した私は
ミーハーにも形から入って日本人であることを実感してみようと考えた。
 
個展みたいな大きな展覧会が終わるととりあえずもぬけの殻になってしまうので、
次なるステップを踏み出すまでに時間がかかるのはいつものことだ。
 
ダラダラと同じようなテーマを作品にするのも意味がないし、
かといってそんなに「自分は何者か」とか「生きる意味は」なんて重たいことを
毎日考えているわけではないので、
次なる一手はそう簡単に繰り出せるわけではない。
 
しかし、リフレッシュ旅行と称して出掛けたイタリアでは
やっぱりこれでもかとイタリアの底力を見せつけられ、
結局は「日本人として生きていることをもう一度ちゃんと考えなければ」と
いうところに矛先が向かっているのを感じている。
 
自分のルーツ、
それはだいぶ昔から私の中のテーマではあったので、
今までにも作品にそうした気配が見え隠れしていたのだが、
そろそろちゃんと向き合わなくちゃという気がしている。
 
ということで、
日本人は日本人らしく、
本日はお茶のお稽古にキモノで出掛けることにした。
 
6月下旬といえば
一重のキモノを着る最後のチャンスだと思い、
タンスの中でしばらく登場の機会がなく、
しわになっていたベージュの格子柄の一重を引っ張り出してみた。
 
キモノ地そのものが細い畝になっているので、
一瞬ちりめんのような風合いに感じられ、
肌触りがさらりとしている。
 
それに墨色の絽の名古屋帯を合わせることにした。
こちらは細い金糸で雪輪模様が描かれている。
 
雪輪はもちろん冬の雪を図案化したものだけれど、
冬しか着てはいけないということもなく、
夏の帯に用いて涼しさを演出しようということらしい。
 
個人的に雪輪は大好きな模様で、
日本の図案の中で1,2を争うパーフェクトな図案だと思っている。
 
それに少しグリーンを帯びた水色の帯締めと帯揚げをし、
オフホワイトの夏用の草履、
細かい編み目の籠バッグを小物に用意した。
 
幸い外は薄曇りで強烈な暑さもなく、時折涼しい風が吹いている。
 
水色の日傘を差し、
お茶の先生のご自宅まで30分ほどかけて歩いて向かった。
 
途中、汗でキモノの裾がふくらはぎに絡まりつき、
それでなくても小さな歩幅がますます小さくなり、転びそうだったが、
涼しい顔で歩き通した。
 
湿度の高い日本の夏に、
キモノを着て、茶の湯を楽しむ。
 
そんなパフォーマンスの中から日本人であることの何かが分かるとも思えないが、
やる前から諦めるのも大和なでしこがすたると思い、
やってみた。
 
美の女神、ミューズが降りてきてささやく気配はまだないが、
気持ちだけは凛として悪くない。
 
とはいえ、これを今、書いている私は
ハーフパンツにキャミソール。
腿も二の腕もあらわな、あられもない姿なのである。
嗚呼。

2015年6月18日木曜日

額縁取り付けサービス

ドアがぶつかりそうで
照明のスイッチがあり、
左の絵の下にもスイッチカバーが隠れている。
 
 
 
 
6月の初め、キモノで神楽坂散歩の会で初めてお目にかかった方が、
次の週の紫陽花展にひょっこり来てくださり、
思いもかけず、2点の作品をお買い上げくださった。
 
そんなことは長い年月、作品を発表してきたが初めての出来事かもしれない。
 
日本人の文化の中に「絵を購入して飾る」という考えはあまりないので、
親しい友人や長いおつきあいの末にお求めいただくことはあっても、
なかなか見て気に入ったからパッと買うというわけにはいかないことが多い。
(パッと買うにはいいお値段だしね・・・)
 
それでもギャラリーの顧客や通りがかりのお客さんが
案内状やウインドー越しに作品を見て、求めてくださることもまれにある。
 
今回はそれともちょっと違う流れだった。
 
「神楽坂散歩」の日は最寄り駅からキモノ姿でご一緒だったにも関わらず、
最後にお茶をするまでひと言もお話しすることがなかった方なので、
まさか展覧会にお越しくださるとはまったく思っていなかった。
 
もっと言えば、その日一日、何となく相手から牽制されているのを感じていたので、
親しくなれそうにもないとさえ思っていた。
 
型どおり、「来週、こんな展覧会がありますので、もしよろしければ・・・」と
案内状をお渡ししただけだったのだが・・・。
 
なのに、その方は展覧会にさっと来て、さっと見て、さっと決めてお帰りになったので、
「お茶の先生でちょっと難しい方かも」という最初の印象とは違って、
きっとサバサバとしたさっぱりした方なんだろう。
 
ご自宅は最寄り駅からさほど遠くないことも分かり、
「2階のリビングにするか1階の食堂にするか、迷っているの」ということなので、
額縁用金具を持って、車でお宅に伺うことにした。
 
迷うことなく到着したお宅は、1階にお茶室があり、
玄関先にいてさえ青畳の香りが漂ってきた。
 
お茶室の奥の食堂にまず入り、壁を見せてもらったが、
キッチンとは独立なので温度差による悪影響は避けられそうだが
絵を掛けるにはちょっと暗い。
 
一方、2階のリビングは明るい光が差し込んで、
1階の和の空間とは全然ちがう、洋食器が飾られたセンスのいい洋室だった。
 
そこのすでに花の絵が飾られているその絵をはずした空間に飾りたいとのことだ。
 
見ると壁の真ん中あたりに電気のスイッチと
電話線をひいたのに使わなかったからとプラスティックカバーをしたところがある。
 
個展の後に取り付けに伺った友人のうちも
クーラーの室内機とコンセントが部屋の真ん中にあり、
額縁をかける妨げになっていたことを思い出した。
 
なぜか室内の電気工事業者は使い勝手は考えても
なるべく目立たなく美しくといった配慮に欠ける。
 
「今回もドアが開いたときに隠れないようにしたい」のと、
「スイッチは隠すわけにいかないけど、電話線カバーは逆に隠したい」など、
壁の周辺環境に問題があって、
ギャラリーのように自由に展示するわけにはいかない。
 
それでもそうした条件をすべてクリアして無事取り付けが完了すると、
1階のお茶室でお抹茶を点ててくださるという。
 
裏千家のお茶の先生のお宅に伺うことは、表千家の私にとって初めてのことだ。
 
鮎の形をしたゆずあんの最中とお干菓子を頂き、
2服もお抹茶を点てていただいた。
 
お茶の話になると、急に話が弾んで、
先生のお母様の代のことや裏千家のいろいろなことを話してくださった。
 
そうこうするうちに8月に予定されている夜のお茶会は風情があっていいから
「もし、よろしかったらご一緒に」とお誘いを受けた。
 
大門にあるお寺さんで行われる小規模なお茶会で
先生のお気に入りの会だとか。
一席10名限定の小さなお席のメンバーに混ぜてくださるらしい。
 
何百人も来る大きなお茶会ならいざ知らず、
そんな会に誘っていただき、何だか一挙に先生との距離が縮まり、
逆に世間が広がるのを感じる。
 
今、篠田桃紅の「103歳になってわかったこと」を読んでいるのだが、
その中から受け取る自然体の生き方や
ものの受け取り方や受け流し方に通じる出逢いかもしれない、
そんな風に感じた今日の出来事である。
 
「一期一会」
出逢いと別れを大切に。
今日を生きる。
 
 
 

2015年6月15日月曜日

最後の紫陽花展に

 
 
 
 
昨日、第16回の紫陽花展が終了した。
 
毎年この時期に、同じメンバーで行われてきた紫陽花展だが、
16回目にして、どうやら閉幕してしまいそうである。
 
16年前、今はなくなってしまったギャラリーヨコハマという画廊の担当者が
女性ばかりのグループ展をやりたいと企画し、
当時、中堅どころで活躍し始めた女流画家10名を集め始まったのがこの会だ。
 
油絵・日本画・水彩・木版画と扱う素材も絵の表現も
本当にバラバラの個性がぶつかるような作品だったが、
なぜか、メンバーはとても仲良く、適度な距離とリスペクトを保ちつつ、
今日までやってきた。
 
今回もギャラリーヨコハマ、岩崎ミュージアムを経て
ガレリア・セルテという新しい場所に開催場所を移したにもかかわらず、
昨年から2名抜け7名の作品が収まるべきところに収まり、
なかなか落ちついたいい展示内容になった。
 
大勢のお客様にも来ていただき、
新しい展示スペース、関内駅前という立地の良さをご好評いただきながらも、
やっぱりここで一区切りをつけざるを得ないという結果になった。
 
7名の内、4名が身内に介護の問題を抱え、
はっきり言って、絵を描く余裕がない状況なのだ。
 
昨年で卒業したメンバーも母親の介護の問題と、ご自身の老齢化が理由だった。
 
16年も続けていれば、
16才、皆等しく歳をとったということで、
『老い』にまつわる問題は避けて通れないということなのだ。
 
4人の親をすでに見送ってしまった上に
ダンナがまだ健康に過ごしている私は
メンバーの中で1番お気楽なご身分ということになる。
 
女流画家は結婚したらしたで、子育てや家庭の維持に翻弄され、
子育てが一段落したら、今度は親の介護、
それも見送ったら次はダンナの介護、
気がつけば自分も病を得ているなんて笑えない状況になりがちだ。
 
そんな環境の中で、自分を奮い立たせ、
あるいはかえって絵に集中することで気分転換しながら制作している。
 
この会期中の1週間の間でさえ、
ダンナさんが40度の熱を出して救急車を呼んだとか、
お母さんをお姉さんに預けたら「洋服をどうやってきたらいいかわからない」と
いっているけど、どうしたらいいかと訊かれて閉口したとか、
今日もダンナさんに術後のドロドロおかゆを作って食べさせてきたとか、
現実の生々しい話が日々繰り広げられていると知った。
 
絵空事の世界に閉じこもっていたくても、
現実は待ったなしに押し寄せ、
絵描き仲間のモチベーションと時間を奪っていく。
 
7人でちょうどいい感じにうまったスペースを残りの3人で埋められるはずもなく、
目下、制作をしていられるメンバーの士気も下がる。
 
来週、打ちあげの会が催され、その時、今後のことが決まることになるが、
今まで通りの16年間続いた展覧会には終止符が打たれることは
間違いないだろう。
 
『無常』
また、この世には常に続く、永遠に続くものなど何も無いということに気づかされる。
 
そこから新しい形が生まれるのか、
本当に過去の記憶になってしまうのか、
まだ何も分からないけれど・・・。
 
それを受け止め、許容し、
咀嚼して前に進むしかない。
 
重く受け止めるのか、
♪ケセラセラ、なるようになる~♪ と受け止めるのか、
それすら、ひとりひとり違うのだ。


2015年6月8日月曜日

今年も紫陽花展の季節

 
 
 
 
 
今日から第16回紫陽花展が始まった。
 
会場を関内駅前にあるガレリア・セルテに移して、
メンバーも9名から7名になった。
 
今日は夕方からオープニングパーティだったので、
それぞれパーティ料理の買い物や調理を担当して、
女性ばかりの展覧会らしく華やかで彩りよく、しかも食べておいしいものが
たくさん並ぶ豪華なオープニングパーティになった。
 
私は例年通り、キッシュとピクルスを作ってくる担当だったので、
2時半にキッシュが焼き上がるよう準備して、
アツアツのキッシュと2日前から仕込んだ冷え冷えのピクルスを車に積み、
ダンナに運転だけ頼んで、3時半に会場入りした。
 
ここの会場はいままでの2箇所の会場と違って、充実の厨房設備が整っており、
現場でカナッペやサラダ類、カットフルーツ、唐揚げの盛り付けを
担当しているメンバーは、すでに厨房で忙しくパーティ準備に余念がない。
 
今までと会場が違っても
心優しいお客様がそれぞれの作家を追いかけ、今年も集まってきてくださっており、
4時半のスタート時にはにぎやかに乾杯の声が上がった。
 
9名のメンバーから2名が脱退し、
更に今年で卒業したいといっているメンバーが3名いることを思えば、
16回目を迎えた紫陽花展も、ちょっと風前の灯火状態なのだが、
そんなこと微塵も感じさせずに
いつもどおり和やかに今年の展覧会もスタートしたようだ。
 
昨日の搬入・セッティングの時も
新しい画廊という初めての環境にもかかわらず、
7名の作家の位置取りは驚くほど速やかに決まった。
 
誰ひとり「私、どうしてもここに飾りたい」だの「この場所は嫌」だのといった
わがままを言わず、
さりとて、至極自然の流れの中で、当然のごとくにその作品に適した場所が選ばれ、
当人も周囲も納得の上で場所が決まっていく。
 
どこのグループ展でも多少、位置取りでのもめ事や駆け引きはあるものだが、
それが全くなく、かといって誰かが一方的に決めるでもなく
「会場全体でひとつの作品としてどこに何を置くか」について
みんなの合意の元、すんなり事が運ぶのである。
 
「それが16年の経験よね」と誰かがいい、
「もう、あ・うんの呼吸ですよ」と誰かが受けた。
 
そう言える仲間は得難いものと思いつつ、
それでも別れの時は近いのかもしれない。
 
私の作品は会場の外からもよく見える入り口左の一部屋を全部いただいた。
スペースとしてはもらい過ぎとも思うが、
「そこはハギワラさんで決まりね」とすんなり決着がつき、
他の壁面の位置取りに話は移っていったので、素直にそこを使うことにした。
 
個展の時のメインの壁を飾った5枚の作品が
今度はちょっと順番を変え、
2面の壁に振り分けられ、掛けられている。
 
壁面がベージュ色の画廊なので、
いつもの白い壁のギャラリーと趣が違う。
 
静かなたたずまいで、落ちついてみえる。
 
今日はキッシュを焼いたり、パーティで接客したりで、よく作品を見ていないが、
明日からは会場に行って、作品群をしっかり鑑賞しようと思う。
 
もしかしたら、もう油絵や日本画の隣に自分の作品が並ぶことはないかもと思うと、
16年の年月が別の意味を帯びてくるかもしれないから。

2015年6月6日土曜日

黒天目の大皿

粘土2,4キロを使って創ったてびねりの大皿
 
目下、シリーズ化している白と茶のマーブル模様のオーバル鉢
 
 
 
久しぶりに陶芸工房に行ったら、
5月に釉薬をかけた何点かの陶芸作品が焼き上がっていた。
 
少し間が空いているので、自分の作品ながら新鮮な感じだ。
 
今回の目玉は何といっても黒い大皿で、
2月3月のテーマ作品だった。
 
工房では基本、何を創っても許されているが、
テーマ作品というのが2ヶ月ごとに設定されており、
いままでに「れんげ」「板作りの重箱」「蓋のつく器」「どんぶり」などなど
日常使われる器の中から、先生が決めて課題として出され、制作してきた。
 
私はてびねりしかしない上に、あまり興味が持てなければ課題は無視するという
勝手な生徒なので、
今まではやったりやらなかったりだったが・・・。
 
今回の課題の大皿は、「直径28センチ以上を目指して創ること」というルールだった。
大物ばかり創るハギワラさんとしては、やらないわけにはいかない課題だ。
しかも、今までそこまで大きなお皿は創ったことがない。
 
お皿はどんぶりなど深さのあるものに比べ、
平らにした時、粘土がだれて落ちないないようにするのが大変だし、
均一に28センチの直径まで粘土を延ばすのが難しいことは容易に想像できたので、
逆にやってみようという気持ちを駆り立てられた。

焼きあがりが28センチになる為には
焼成で縮むから、生粘土の時、31~32センチの直径のものを創らないといけない。

しかも、 
陶芸は大物になればなるほど、途中で割れたり、ひびが入るリスクが増す。
最初の乾燥、1回目の素焼き、釉薬をかけた後の本焼きと
段階が進む度に、
粘土の厚みが均一でなかったり、無理な力がかかっていたりすると
簡単に割れたり、ひびが入るので、ドキドキものだった。
 
しかし、今日、工房の大きな作業台の上に自分の黒い大皿を見つけた時、
案外、想像していたとおりに焼き上がっていたので、内心、小躍りして喜んだ。
 
今日の工房は先生含め、男性ばかり7人に女性は私だけだったので、
人の作品の品評会はしないまま、まずは黙々と新作の作陶に励んだ。
 
これが女性の多い日だと、
すぐさま焼き上がったみんなの作品をわいわい批評し合うのだが、
男性陣は人の作品については褒めもけなしもしないので、つまらない。
 
結局、作業時間の途中で、一度手を休め、先生の講評を聴くところまで
焼き上がった作品についてはノータッチだった。
 
講評ではまず先生が私に「ご自分ではどうですか?」と訊いてきたので、
内心、先生はいいと思っているのか、大したことないと思っているのか
計りかねるところがあった。
 
でも、正直に「案外、自分が狙った感じに焼き上がってきました」と言うと、
いきなり「これ、いいよね」と周囲の男性陣に念を押すような感じでおっしゃった。
 
「この30センチの大皿という大きさに対して、
ハギワラさんらしいドーンとした感じで釉薬もかかっているし、
お皿の縁の厚みも厚くてどっしりしている。
みんな縁が薄くて何だか頼りないんだよね。
縁のこと、もっと気にした方がいいよ」
そんな風に女性なのに、誰より男性的と褒めてくださった。
 
それは喜んでいいのか、よく分からないが、
とにかく狙っていた感じにたっぷり黒天目の釉薬がかかり、
縁の白い失透という釉薬が黒と混じって、なかなかいい表情を創ってくれた。
 
焼きあがりの皿の重みや厚みも、大皿として求めていた感じに焼き上がった。
(生粘土の時と焼きあがりでは大きさも重さも全然違ってしまう)
 
10月の初めには、県民ギャラリーで工房の作品展がある。
その時はひとりずつテーブルを担当して、自分の島を作るのだが、
それとは別に今年は「大皿コーナー」を作るらしい。
 
まだ、自分のテーブルをどうするかコンセプトが煮詰まっていないが、
大皿コーナーにこの黒天目の大皿を出品することだけは決まった。
 
出来上がり寸法、直径28㎝。
ここまで大きなお皿は創ったことがなかったのに、
何とか最後まで割れもひびもいかずに焼き上げることが出来た。
 
その上、ある程度、狙いどおりの釉薬の感じに焼き上がったのだから、
これはもうビギナーズラックとしか言いようがない。
 
まだ、陶芸は始めて3年半。
2年ぐらい前は、焼きあがりの度に、割れるもの、ひびが入るものがあって
その度に悲しい思いをした。
 
最近は少しだけ粘土との対話ができるようになって、
相手がなりたがっているものがわかる時がある。
 
きっと野菜とか肉もなりたい料理があるのかも・・・。
 
人の気持ちも、粘土の気持ちも、野菜や肉の気持ちも、
深く息を吸って素直な気持ちで、相手に耳を傾け、わかるようになれれば、
世の中、もっとうまくいくことだろう。
 
10年選手のおじさま達が、首をひねりつつ私の大皿をひっくり返してみていたが、
今回の勝因は「無欲の勝利」
 
「黒いでっかいお皿に揚げ物をドーンとのせた~い」
ただそれだけの食欲の勝ち。


2015年6月4日木曜日

キモノで神楽坂

まずは赤城明神社という神社に参拝
 
 飯田橋構内の地下通路にある江戸古地図の前で説明を聴く
 
路地は黒塀に囲まれた料亭が並び、
石畳や打ち水、盛り塩のおかれた料亭の門前など
江戸の風情が感じられる
 
 
 
イタリア旅行の時差ボケもお持ち帰りの風邪っぴきも治ったところで、
今日はキモノで神楽坂を歴史散歩する会に参加した。
 
なじみの呉服屋の女将さんに
「キモノを着てでる機会があんまりないから、お店のお客様を募って
どこかに出掛ける会を呼びかけてくださいな」とお願いしたものが実現した形。
 
その1回目は東京の山の手、神楽坂に出向き、
神楽坂郷土史研究家の先生をお招きして、あちこち散策しながら、
江戸の歴史と面影の残る場所を案内してもらうという趣向だ。
 
6月に入って、昨日は本降りの雨になり、明日からも梅雨入りの気配が南から
北上しそうな感じだが、
今日だけはピカピカの晴れ。
 
日差しは昼頃、相当強くなったが、風があり、なんとかキモノでも過ごせる陽気だ。
 
11時半、神楽坂の駅前に集合したキモノメンバーは8名。
皆、思い思いの初夏の装いに身を包み、
日傘を手に、初めて降り立つ駅に集まった。
 
他に女将さんのお兄さんと、神楽坂郷土史研究家という男性が加わり、
総勢10名。
 
京都ならいざ知らず、東京にいて歌舞伎座周辺でもないのに
キモノ姿のおばさま達がこれだけいるのは、
さすがに神楽坂でもちょっと目をひく光景だ。
 
郷土史研究家の先生は頭にヘッドホン式マイクをつけ、
説明しながら、路地や坂を先導して歩いているから、
道行く人が「何の会かしら」と興味深げに振り返ってみている。
 
最初に赤城明神社という神社に参拝し、
そこで江戸の古地図をいただいて、説明を受け、
本日の散歩コースを地図に照らして確認してから、さあ、出発。
 
江戸の古地図には「市中引き回しの時の道順」というのが赤い点線で書いてあり、
私が「お祭りの山車の道順とかなら分かりますけど、
市中引き回しの道順を地図に入れるなんて、そんなに頻度高くあったんですか」と
質問すると、
「江戸時代はちょっと悪いことすると見せしめのためによく市中引き回しに
されたんで、みんな、地図で確かめて観に行ったんですよ。
今で言うマラソンを沿道に応援にいくのと同じ感覚ですよ」と言われ、
ちょっとビックリ。
 
市中引き回しはエンターテイメントだったのか?
本当に?
 
郷土史研究家の話に首をかしげながらも、
一行は路地に入り、今でも料亭が並ぶ界隈を歩いた。
 
夏のキモノを着た女性が日傘を差して、路地を行き交う姿はなかなかに美しい。
路地の敷石は見た目は10㎝角ぐらいの小さな石だが、
縦に長く埋めてあり、石と石の間はわざと目地を埋めずにおくという。
 
すると目地のところを水が流れ、石の上を草履で歩けば、
雨の日にもキモノの裾に泥ハネがつかないという。
 
まるで先週いたイタリアの街と同じ石畳と感心しながら、
今日はキモノで日本人している自分が可笑しい。
 
その後、お昼ご飯に神楽坂通りの和食屋さんで松花堂弁当、
飯田橋駅すぐそばのお堀のみえるおしゃれなカフェでお茶をして、
本日の江戸散歩の会は終了した。
 
歴女とは言い難いおばさま達が、それでなくとも暑い日にキモノを着込んで
横浜から神楽坂まで遠征したので、
ちょっと小難しい、そして、あまり面白くない話と
(郷土史研究家のコミュニケーション能力の問題もあると思うけど・・・)
帯の締め付けで止めていた汗とで、
家にたどり着いたら、案外、疲れがドッと出てしまった。
 
涼しい顔してキモノで過ごすのも楽じゃないと思いつつ、
ちょっと頑張っておしゃれするのも江戸の粋。
 
次は『夜の神楽坂』なんていう案を楽しみに待とうと思う。
 
 


2015年6月3日水曜日

イタリア紀行6  蒼い手袋

ローマのスペイン広場近くで皮手袋をゲット!
 
ベネチアで求めたモノトーンのストールともグッドバランス
 
思いがけず皮手袋を買うことが出来、喜色満面の私
スペイン広場の階段にて
 
ローマといえばジェラード
気分はオードリー・ヘップバーン?!の友人
 
 
大昔、大学時代に、年の離れた恋人から
留学時代に見聞きした話として、
「イタリアで自分にぴったりの手袋と靴を選んでもらうのは楽しいよ」と
聞いたことがある。
 
その話によるとイタリアでは決して商品を自分で勝手に手にとってはいけなくて、
色や形の好みを伝えると、
店員さんがこれぞというものを店の奥からもってきて見せてくれるという。
 
試してみたいとなると、手袋の場合は座布団みたいな肘置き台に肘をついて
手の先を天井に向け待っていると、
プロの店員さんが瞬時に手の大きさを判断して、
選んだ手袋の中に粉を振り入れ、ぎゅーっと延ばしながら手にはめてくれる。
 
最初はかなりきついと感じるけど、
イタリアは皮のなめし技術がいいから、ほどよく伸びて、
やがて使い込む内に、もう1枚の皮膚のように手になじんだ手袋になる。

その時は
そのプロに任せて選んでもらうプロセス自体がかっこいいと思って聞いていたが、
月日が流れ、そんな話はすっかり忘れ、
そんなことを経験することもなく今日に至った。
 
しかし、今回のイタリア旅行の観光最終日、
午前中はヴァチカン市国に行き、午後はローマ市内に戻って
ミーハーにも真実の口に手を突っ込んで記念写真を撮り、
工事中のトレビの泉でコインを投げてローマへの再訪を願い、
脇のジェラード屋さんでジェラードを買って舐め、
最後にスペイン広場にいくという
『ローマの休日』のオードリーさながらの予定を強行にこなす中で、
ハタと思い出がよみがえってきた。
(さすがに髪を切る時間まではなかったが・・・)
 
私達メンバーが
トレビの泉から渋谷109通り並みの人混みをかき分け、
スペイン広場に向かう途中、
ふいに左目の端にカラフルな色が飛び込んできた。
 
ひょいと左を向くと小さな手袋の専門店である。
ショーウインドウと店の棚に色とりどりの革手袋がぎっしり並んでいる。
「ちょっと見て見て」と右にいた友人をつつくと
「わぁ、きれいな色」とかなりの食いつき具合。
 
友人はすでに真っ赤な皮の手袋を持っていて、
次は「プラダを着た悪魔」で見たような鮮やかなグリーン、
もしくは黄色い皮手袋が欲しいと具体的に思っているほどの皮手袋好きなのである。
 
私はそこまでのこだわりを手袋に持っているわけではないが、
何十色と揃うその美しいカラーバリエーションはちょっと見逃せない感じだ。
 
一団が人でごったがえすスペイン広場に着いてすぐ、添乗員さんに尋ねた。
「ここで戻って手袋屋さんに行く時間ありますか?」
「たぶん、ガイドさんが後で写真タイムを少しは考えていると思います」という答え。
 
私達がスペイン広場の解説を聞き終わるや否や、20分の写真タイムと聞いて
今来た道をひっ返したのはいうまでもない。
 
道中、2軒あった手袋屋さんの1軒目にたどり着いたが、
ショーウィンドウにあいにく彼女が思うようなグリーンの手袋がない。
 
「最初に見たお店で、確かきれいなグリーンを見た気がするの」
「じゃあ、どうする?行く?時間あるかな?」と私は時計を見ながら言いつつ、
すでに彼女の手を取り、最初のお店に向かって走り出していた。
 
息せき切って走り込んだその店先には、彼女が目に止めたグリーンがあり、
即座に友人は「これください」と叫んでいた。
 
いかにもという感じのイタリアン・マダム風店員が「オーケー」と目で合図を送り、
彼女の手のサイズを一瞥で判断して、棚からひとつの手袋を取った。
 
手袋の中に白いシッカロールのような粉を少し振り入れ、
彼女の手にギシギシはめた。
ドンピシャなサイズだったようで、彼女の目が輝いている。
 
彼女が手袋をはめてもらっている間に、自分は何色にしようか考えた。
今回の旅のテーマカラー、ディープローズにするかと悩んだが、
結局、まずは黒いコートに映えそうなコバルトブルーにすることにした。
 
店員さんは同じく私の小さな手を一瞥し、
「ラスト・ワン」と言って、たぶん一番小さいコバルトブルーの手袋を手に取った。
 
昔の恋人が言ってたお盆の上に座布団を載せたような肘置き台を指し
肘をつくよう促された。
聞いてたとおり、私は右肘をついて指先を天井に伸ばした。
 
最初は相当きつい感じだったが、
「大丈夫、伸びるから」と、プロのいうことを信じなさいと言わんばかりに
マダムは私の小さな手に
お構いなく更に小さなコバルトブルーの手袋を指1本ずつはめていった。。
 
こうして私達はそれぞれ1番欲しかった色の皮手袋を手に入れることが出来た。
 
お値段1対39ユーロ。
日本円にして5400円。
友人曰く、日本で買ったら間違いなく30000円以上はするという。
 
そのことも驚いたし、嬉しかったが、
何より、最後にもらった20分で、猛ダッシュで来た道を戻り、
昔聞いたとおりに肘置き台に肘を載せ、イタリアで手袋を買うという体験が出来た。
これこそ、プライスレスな思い出だ。
 
後から
「もう5分、時間があったら、あなたは黄色、私はディープローズを買えてたわね」と
悔しさがこみ上げてきた。
 
でも、工事中のトレビの泉で、ふたりとも願いを込めてコインを投げたから、
きっとまた、ローマに戻ってこられるだろう。
黄色とディープローズの手袋はその時のお楽しみにとっておくのも悪くない。
 
こうして、数々の楽しい思い出と共に
5月29日、私達は帰路についたのであった。

イタリア紀行5  恐るべしミケランジェロ

 
「最後の審判「はヴァチカン市国の中の美術館内にある
内部では一切話すことが出来ないので、解説は外の庭で聞いてから入場する
 
サン・ピエトロ大聖堂の中にある「ピエタ」
ミケランジェロの代表作で今は防弾ガラスの向こうに鎮座している
見ていると涙が出そうになる
 

サン・ピエトロ大聖堂のクーポラ(ドーム)
この部分もミケランジェロが手がけたというのを初めて知った
 
サン・ピエトロ広場の門の前に立つ衛兵
派手でかっこいい制服のデザイナーはこれまたミケランジェロらしい
 
その昔、大学3年になる前の春休み、
同級生と一緒に約40日間の「ヨーロッパの美術館巡り」の旅をしたことがある。
 
航空券だけ手配して、あとはホテルも何も決めずに現地で手配するという
今考えると若い娘が行くには随分無謀な旅だったと思うが、
その時一番長く滞在したのがイタリアだった。
 
約2週間の間、ローマ・ミラノ・フィレンツエ・アッシジと周り、
特にローマとフィレンツエにはそれぞれ5日ぐらい滞在してゆっくり美術館を巡った。
 
その中でも強烈に印象に残っているのが
ヴァチカン市国にある「最後の審判」とシスティーナ礼拝堂、
サン・ピエトロ寺院にあるミケランジェロの残した彫刻群だ。
 
ミケランジェロはいわずとしれた彫刻家だが、その才能は彫刻だけにはとどまらず
「最後の審判」も「システィーナ礼拝堂の天井画も
サン・ピエトロ大聖堂のドームも手がけたというから本当に驚きだ。
 
もはや人ひとりのなせる技と量ではないと思うし、
いくら弟子に手伝わせているとはいえ、
実物を見るといずれもあまりに巨大で、
同じものを創る人間として言葉を失うしかない。
 
美大の学生時代、30数年前もそれらを見あげて、
「これだけの仕事をなした芸術家がすでにいるのに、
日本人の私がこれから先、
ルーツにない油絵を描き続けても越えられるわけがない」と
研究室を油絵から版画に変える引導を自分に渡すことが出来たと思っている。
 
それから今日まで、木版画家としてなんとか制作・発表しつづけてきたが
今回また、ヴァチカンで多くのミケランジェロ作品を観て、
あらためて嫌になるほど偉大な作家だなと感じ入ってしまった。
 
その上、衛兵のあんなポップでかっこいい制服までデザインしたなんて
才能があふれていて、羨ましすぎる。
 
「イスタンブールを見てから死ね」とか
「ローマを見ずして死ぬな」とかは聞いたことがあるが、
私はみんなに「ヴァチカンを見て死ね」といいたい。
 
あの圧倒的な建造物と彫刻群。
「最後の審判」をはじめとする壁画群。
 
キリスト教の総本山として信仰のパワーも充満しているから
ますますもって凄いのひとことしかでてこないだろう。
 
それを肌身で感じて、鳥肌が立つような感覚と、
涙が出そうな感動を体験してほしい。
 
私はキリスト教徒ではないけど、
宗教の牽引する力の大きさに打ちのめされ、
自分が日本人であることをどう考えたらいいのかみたいな
大きなテーマがドドーンを押し寄せてきて、
旅行の最終日、すっかり
「ヴァチカンにもう一度こなくちゃ」という後ろ髪ひかれ隊になってしまった。
 
イタリアは個展が終わったリフレッシュ旅行のはずが、
お腹いっぱい胸いっぱい、
まあ、新たな課題をもらってよかったのかなと思っている今日この頃である。
 
 

2015年6月2日火曜日

イタリア紀行4  一発入場『青の洞窟』

 
 
 
 
 
イタリア旅行のメインイベントに『青の洞窟』をもってくるコースは数多くある。
 
今回私たちが参加したコースも南北周遊型のコースなので、
旅の後半の最大の山場として用意されていた。
 
しかし、この『青の洞窟』
行けば必ず入れるというわけではないところがミソで、
天気がよくても風がすこしでも強い場合は危険と判断されて入ることが出来ない。
 
5月から夏にかけては入場率は高くなるので、
例によって根拠のない自信で「大丈夫よ、きっと入れる」と思っていた私だが、
実際、前日は午前組は入れたけど、午後組は駄目だったなどと聞くと
にわかに「大丈夫かしら」と心配になってきた。
(後日談として、私たちの次の日は入れなかったらしい)
 
当日は当日で、これまた船の順番取りが熾烈らしく、
朝7時30分にはホテルを出発し、港に向かった。
 
港に着くとイタリア人ガイドの男性が切符を入手してくれており、
200人乗りぐらいの大型船にまず乗って、ナポリからカプリ島に向かう。
 
(200人はカプリ島に仕事やレジャーに行く人もいるので
皆が皆、青の洞窟に行こうとしているわけではないが・・・)
 
船を下りたら今度は30人乗りぐらいの中型船に乗り換え、
その際の出発順で洞窟内に入る順番が決まるということで、
なるべく大型船の出口付近に座っておいて、
降りたらすぐにダッシュで中型船に乗り換えるよう指示が出ていた。
 
参加メンバーはおしなべて中高年なわけだから、
みんな自分が足を引っ張らないよう、
カプリ島が近づくにつれ、
入場への期待と共に、責任も感じることになり、変な高揚感に包まれている。
 
私たち29名のメンバーは他の日本人の団体より、
何人か分からないが外人の団体よりもいち早く中型船に乗り換え、
(ここでは日本人の私たちが外人だということはさておき)
無事、洞窟のある島の西側へと出港した。
 
天気は快晴。
風も穏やかで、本日午前中の入場は許可された。
 
陽気なイタリア人ガイドがみんなを盛り上げ、
夫婦で参加のメンバーには「タイタニックみたいにして」とポーズを取らせ、
記念写真を撮ってくれる。
 
「ここまでくれば、いよいよ入れる」とわくわく感が増して、
旅の気分も最高潮。
 
洞窟の入り口は実際にみると驚くほど小さく、
海面からは60㎝ほどの高さしかない。
 
昨今の地球温暖化の影響で水位が全体に上がっていることと、
日々の潮の満ち引きの関係で、
毎日、入れたり入れなかったり、同じ1日でも違ってくるというのもうなずける。
 
洞窟の目の前のエリアまでくると
今度は5人乗りボートにそれぞれ乗り換える。
 
29名の仲間は8艘のボートに4人ずつ分乗し、船底にお尻をつき足を投げ出して座り、
さあ、いよいよ洞窟の中へ!
 
洞窟入り口の上部には綱が1本張ってあり、
私たちお客はなるべく船底でのけぞってが岸壁が頭に当たらないようにし、
船頭さんがロープをたぐって中にボートを一気に滑り込ませる。
 
メンバーの乗ったボートが何艘か分からないが狭い洞窟にひしめき合って入場し、
船頭さん達の歌う「帰れロレンツォへ」の歌声が洞内にこだまする。
 
見たこともないような神秘的な蒼い海がそこにあって、
ボートのオールの金具の音と、みんなの歓声と、
必死にきるカメラのシャッターの気配が小さな洞内に湧き上がり渦を巻いている。
 
2周ぐらい洞内を巡ってくれたのかもしれないが、
次々と入場し、ぐるり廻って、次々と外海に戻っていくので、
興奮の青の洞窟体験は3分ぐらいで終わったのかもしれない。
 
まるでデイズニーランドのアトラクションみたいだと思いながらも、
念願の青の洞窟はこうしてトライ1発目で楽々クリア出来てしまった。
 
イタリア旅行に3回参加し、3回目のトライでようやく入れた人の話や
事実入れなかった友人のお土産話を聞いたことがあるので、
なんだかガチャガチャ興奮している内にあっという間に終わってしまったが、
一発入場の幸運に感謝しなければいけないのかもしれない。
 
帰りの船では大仕事をやり遂げた後の満足感と安堵感みたいなものが
みんなにも添乗員さんにもあるようで、
スムーズな流れの中でたくさん出来たカプリ島の自由時間に
驚くほどの大量のお土産物を買い込んで帰るメンバーの姿があった。
 
私もそのひとり、
レモンピールのチョコに、オリーブの柄のついたオリーブ専用小鉢、
レモンの絵柄のチーズカッター、小皿、
イタリアをかたどったガラスボトルに入ったレモンチェッロというお酒などなど、
重たい、しかも割れ物をずっしり買い込み、
案の定、後で泣きをみることになるのである。
 
 


2015年6月1日月曜日

イタリア紀行3  ご当地グルメに舌鼓

ナポリのピザ・マルゲリータ
 
アラビアータとアルベロベッロ地方の地ワイン
 
ローマのピザ・カプリチョーザ
 
 
 
旅行で食が重要なことはいうまでもないが、
今回のイタリア旅行では北から南まで移動する間に
たくさんのご当地グルメを楽しむことが出来た。
 
ツアーの1回にかける食事の予算はさほど多くはないと思われるが、
それでも旅行会社は行く先々のご当地料理の中から評判のいいものを選んで
出してくれていたように思う。
 
中でも印象に残っているのは2種類のピザ対決で、
ひとつはナポリのピザ・マルゲリータ、
もうひとつはローマのピザ・カプリチョーザだ。
 
いずれもこれをひとりで食べるのかと驚くほどに大きく、
石の焼き釜で1枚ずつ焼いて、焼きたてを提供してくれる。
 
ナポリの方は耳が膨らんでもちもちした生地に
たっぷりのトマトソースとチーズのシンプルかつ王道の味。
 
ローマの方は薄い生地にトマトソースとチーズを敷き、
マッシュルーム、アーティチョーク、生ハム、卵などの具をこれでもかとのせた
贅沢な逸品。
 
ピザ対決のみんなの軍配は、いずれ甲乙つけがたいものの
ややシンプルなマルゲリータに挙げる人が多かったようだ。
 
他にもキノコのフィットチーネ、シーフード・リゾット、イカスミのパスタ、
ブロッコリーのオレキエッテなど数々のパスタ料理はいずれも美味だった。
 
また、イタリアの地方によって異なるブドウで作られたワインも
その食事に欠かせないものということで、
昼食にも夕食にも必ずといっていいほど注文し、水代わりに飲んでしまった。
 
水代わりというのは単なるもののたとえではなく、
ヨーロッパではレストランで注文する水の値段とワインの値段はほとんど一緒で
1コインぐらいの差しかない。
 
ワイン1杯3~4ユーロというあたりで、
そのワイングラスは驚くほど大きいから、日本のレストランの2杯分ぐらい入る。
 
あるところでは750ミリリットルのワイン1本を3人のグラスにつぎわけ、
それをグラスワインとして提供してくれるのだから、
ここで水を飲んでいる場合じゃない。
 
イタリア・ワインの銘柄としてもっとも有名なのはキャンティだと思うが、
日本でもおなじみ、下半身をワラに包んだふっくらしたボトルの赤ワインは、
フルーティで軽めでくせのない飲みやすさだ。
 
また、ラクリマ・クリスティ=キリストの涙という何ともステキなネーミングの
赤ワインもキャンティより少し重くて深みのある味わい。
 
ほかにも「ここは白ワインが有名です」と言われれば、素直にそれを注文し、
この肉料理には赤ワインが合うと思えば、
ランチに引き続き夕食にも注文するといった調子で、
連日、ホテルにたどり着く頃にはほろ酔い気分だった。
 
イタリア国旗の赤・白・緑は
トマトとニンニクとオリーブの色だというが、
その3種の食材に限らず、
数多くの本場の味を堪能し、
それらが思い出の1ページを彩ってくれたことは間違いない。