2020年7月30日木曜日

赤ちゃん誕生







7月30日14時46分、
新しい命が、無事、誕生した。

体重2648g 身長49,5cmの女の子だ。

顔立ちは長女志帆とよく似た感じなので、
生まれたては「ガッツ石松」でも、
腫れが引けば、徐々に
シポリンみたいな感じになるのではと思う。

思い返せば、志帆の時のお産は
今回同様、計画無痛分娩にしたにも関わらず、
最後で赤ちゃんがうまく降りてこなくて、
あわや帝王切開に切り替えるかという難産だった。

だから、今回も覚悟を決めて臨んだようであったが、
2度目は思いのほか安産で、
しかも、あらかじめ無痛の処置がなされているので、
娘は分娩室に移動する直前まで
家族にLINEを送ってきたりしていた。

今回はコロナの影響で、
出産時に立ち会えるのは子供の父親のみ、
その他の家族は立ち会うどころか、
お見舞いさえできない厳戒態勢だ。

ダンナさんも分娩室に入室できるのは
本当に産まれる間際になってからなので、
婿殿はずっと連絡があるまで、
最寄り駅のカフェで待機していたとか。
それもまた、お疲れ様な話だ。

しかし、呼ばれてからはサクサクとことは進んだらしく、
なんと産み落とした本人が
これまたLINEで「産まれたよ~」とメールしてきた。

添付されていた写真も汗ひとつかいていない
晴れやかな顔で写っていたのでビックリ。

一人目の時など、ヒーヒー産んだ後も大騒ぎで、
何のための無痛分娩だったのかと思ったほどだ。

その時は私は産んだ直後に分娩室まで入れてもらい、
生まれたての志帆を抱かせてもらった。

しかし、今回は志帆を病院に
連れていくことは許されていないので、
私は夕方、保育園に孫を迎えに行き、
一緒におうちで2番目ちゃんの誕生報告を待つことにした。

迎えに行った時刻には、すでに生まれていたので、
開口一番、「赤ちゃん、さっき生まれたよ」と伝えると、
志帆はちょっとはにかんだような顔をした。

そして、家に着くと、
新生児用に出してきたバウンサーのオルゴールをかけ、
添い寝して「赤ちゃん寝かせてあげてるの」といったり、
しまじろうのぬいぐるみやお気に入りの赤ちゃん人形に
タオルケットをかけたりして、
お姉ちゃんらしいしぐさを見せた。

その女の子らしい様子に胸キュンになりながら、
きっと胸中は複雑なんだろうなと想像した。

実際に妹を連れてママが退院するのは
明後日だが、
トト(パパのこと)とふたりで食べるご飯、
ママのいないお風呂タイムやおやすみタイムを経験して、
3歳児は少しずつ現実を受け入れていくのかもしれない。

さあ、これからどうなりますやら。

まずは2番目の天使ちゃんが無事生まれたことの
ご報告でした。

2020年7月28日火曜日

出産カウントダウン








いよいよ長女の出産まで、数日。

計画無痛分娩なので、
入院日が決められ、普通の流れで行けば、
次の日に出産ということになる。

今回は2回目の出産で、同じ病院を選んだので、
前回の時の話も通じるし、
前回と同じ轍を踏まない準備もできる。

前回は予定日になっても生まれる兆候はなく、
数日過ぎてからの出産になったため、
長女の体格にしては大きくなりすぎ、
産むのが大変だった。

今回は予定日より少し前だが、
週数としては十分なので、
やや小ぶりのうちに産んで、
大きく育てようということらしい。

シポリンの食のたくましさを思えば、
それで何の問題もないだろうから、
今は無事に出産という一大イベントを乗り越えてほしいと
願っている。

問題はむしろシポリンの方で、
最近は少し赤ちゃん返りというか、
甘えたがる様子が見て取れるとか。

新しく通いだした保育園でも
そのあたりは十分考慮してくれているようで、
3歳児を変に刺激しないよう、
トイトレも無理強いしないよう協力してくれている。

実はシポリンも目下、妊娠中で、
おなかの中には赤ちゃんがいる(ということになっている)

名前は「ブルーベリーちゃん」で、
ママはあと2(2日)で入院だけど、
ブルーベリーちゃんは
あと5(5日)で産まれるそうだ。

さあ、自分がお姉ちゃんになること、
自分も赤ちゃんを産むこと、
どんな風に3歳は解釈し、受け入れていくのか。

ほほえましい限りだが、
きっと3歳の心中は複雑だと思うので、
周囲が「お姉ちゃんになったね」とか
「赤ちゃん可愛いね」などは絶対言ってはいけないと、
長女からはお達しがきていて、
やや言葉がけに慎重になりそうだ。

難しいお年頃を抱えた、
2人目の出産。

ばぁばは少しナーバスになっている妊婦の望む形で、
できる限り、手助けに日参しようと考えている。

まずは無事、娘が出産という女の一大事業を乗り切り、
可愛い天使ちゃんに出会えますように。

新生児のあの感触を
わくわくしながら待ちわびる
出産目前の今日である。


2020年7月27日月曜日

静かな誕生会



4連休は鎖骨骨折をした次女が
実家に帰ってきていた。

鎖骨の骨折はベルトで固定して、
なるべく腕から肩回りを使わないようにして、
骨がくっつくのを待つしかない。

キャミソールの上から固定ベルトをし、
その上からブラウスを羽織って、帰宅した次女は、
肩回りがふた回りぐらい大きくなって、
胸には青あざがあり、痛み止めのシップで肌がかぶれ
痛々しい。

折しも日本では、東京を中心にコロナの感染者数が増えていて、
不要不急の用事で出歩くなという要請が出ている。

一方、Go to トラブル、
じゃなくて、トラベル・キャンペーンとやらで、
地方の観光地に繰り出す人もいて、
コロナが全国に広がるんじゃないかと危惧されている。

ダンナが「リニューアルしたベイサイドマリーナでもいくか?」
と、水を向けてきたが、
遠出をしないで近場に遊びに行こうと考える人は多く、
ベイサイドマリーナはとても混んでいるという噂だ。

次女は、こんな状態で洋服の試着もできないし、
人込みで肩にぶつかられたら困ると言って、
結局、その話も立ち消えになった。

ひとりでは着脱のできない固定ベルトのマジックテープを
次女の背中に回って止めてやるぐらいしか、
一緒にいて、してやれることはない。

それでも、骨折した時、
医者は「ご実家に帰りましょうか」と勧めたという。

実家が遠隔地の人はどうすればいいんだ。
実家の親が年老いていて、
何の役にもたたないケースもあるだろう。

医者の何気ない言葉に
都会の一人暮らしの寂しさを感じたかもしれない。

そんな次女は連休中に誕生日を迎えた。
厳密には7月28日だが、
2日早い誕生日会だ。

いつもなら、どこかこじゃれたレストランを予約して、
レストランの用意してくれたケーキのろうそくを
他のお客さんもいる中で吹き消す、
そんな誕生日を過ごすことが多い。

しかし、今年は
外食も、外歩きもままならない。
そんな年もあったねといつになったら思えるのか…。

というわけで、私はおうちご飯で
「豚肉のカッチャータ」
「キャロットラぺのサラダ」
「スパイシー・ポテトフライ」
「ホワイトコーン」「チーズ盛り合わせ」などを
用意した。

しかし、医者に止められているので、
次女はアルコール抜きだし、
ディナーの後に車で送っていくダンナも
アルコール抜きだ。

そんな二人を横目にひとりワインをというわけにもいかず、
私もアルコールは控えた。

なんだかノンアルのせいか
静かな誕生会だ。

せめて、
食後のケーキぐらいはちょっといいものをと思い、
「DEMELのチョコレートケーキ」にした。

最寄り駅のデパ地下にDEMELがあるのはありがたい。
日中、次女と駅前で待ち合わせて、
いくつかのケーキショップの中から選んでもらった。

幾層にも重なったチョコレートとプラリネとスポンジと。
キャラメルがどこかの層に忍ばせてあって、
リッチで濃厚な味わいだ。

我が家では、あと数日で長女が新しい命を産む。

ウン十年前、
私が次女をこの世に産み出した記念日は、
こんな感じでお祝いした。

こうした節目には、
人生のいろいろな出来事が思い出される。

数年たったら、
コロナと骨折のせいでどこにも出掛けられなかった
あの年の次女の誕生会、
DEMELのケーキは美味しかったなと
きっと思い出すだろう。



2020年7月25日土曜日

白い器たち









先週の土曜日に白い釉薬をかけた26点の器が
出来上がってきた。

本来なら、8月の1回目の作陶日にしか
手に入らないのだが、
これらは受注作品だと再三、先生に伝えてあったので、
繰り上げて本焼きをしてくださったお陰で、
1週間で焼きあがってきたのだ。

いつもは無口で融通の利かないタイプの先生なのだが、
この自粛期間にもせっせと造っていた私の姿を見て、
「巻き」で本焼きをすすめてくださったらしい。

「いつでも取りに来て大丈夫」と連絡を受けたので、
雨のやみ間を縫って、鶴見市場まで出かけてきた。

26個の器はひとつも欠けることなく、
つつがなく焼きあがってきた。

素焼きの時にやや反りが出てしまった花瓶敷は、
本焼きを終えたら、平たくなって
反りのない状態になるというミラクルまで起きた。

思いがけず、反ってしまって、使い物にならない、
そんなことはよくあることだが、
逆に、反っていたものが、
本焼きで元に戻ることは滅多にないので、
つくづくラッキーだ。

ここに出来上がってきたものは、
友人からの注文の品ばかりなので、
見せて、気に入れば、手元には残らない器ばかり。

なかなか可愛いやつらだと思って
眺めていられるのも、あと数日だ。

まさか版画家の自分が、陶器を造って売ることになろうとは。

思わぬ展開に嬉しいやら忙しくて疲れるやら。

とはいえ、人と人は何かが介在しないと繋がれないので、
自作の陶器がご縁を結んでくれていることに
感謝しよう。

更に注文に沿って作陶したもう7点も、
素焼きができたら、イレギュラーに釉薬をかけてもいいと
お許しが出たので、
8月始め、引き続き、白い釉薬をかけに行くつもりだ。

「陶工KIMINO」

「版画家KIMINO」より、
だいぶ引く手あまたな売れっ子作家だ。

2020年7月19日日曜日

白い釉薬








陶芸工房2ヵ月に1度の釉薬がけの日。

前回の釉薬がけのタイミングでは
コロナの影響で工房が2ヶ月閉鎖になっていたため、
作品数が足りなくて電気釜を動かすことができなかった。

個人的には友人に頼まれた大量の器を造るべく、
公には閉鎖期間中だったけれど、
先生と交渉して、ひとり静かに作陶してきた。

とはいえ、電気釜に火を入れるためには
相当数の器が入っていないと、
空気の流れがや庫内温度のむらなどの関係で、
電気釜そのものが壊れると聞かされ、
個人的事情での無理は言えなかった。

そんなわけで待ちに待った釉薬がけの日だったが、
前回の作陶日に制作した7点は
素焼きに間に合わなかったようで、
思い通りの数に釉薬をかけることはできなかった。

陶芸は作れば1回焼いて出来上がるわけではなく、
まず、乾燥させてから素焼きし、
釉薬をかけてから本焼きをするという手順を踏まなければ
出来上がってこない。

7月に入ってからの連日の雨と湿気で、
造られた器が思うように乾燥しない。
乾燥しなければ、素焼きにまわすことができない。

電気釜の中には8割がた埋まるだけの器が必要なのに、
会員や体験の人の作品が集まっていないので、
素焼きも本焼きもできないでいる。

電気釜の管理は先生に一任している会員の立場では、
先生の算段にお任せするしかない。

どうやら、私の受注した大量の器たちは
私のカレンダーどおりには焼きあがってこないことが分かった。
それもまたやむなし。

とはいえ、今回だけで
点数にして26点。

他の会員が4~5点の釉薬をかけているのに比べ、
ダントツで釉薬をかけられたのだから、
文句を言ってはバチが当たる。

先生も体はひとつ。
ここへきて本焼き・本焼き・素焼きのスケジュールを
ひとりでこなさなければならないのだから、
ありがた~くお願いするしかない。

今回の釉薬は
「チタン失透」という名の白い釉薬。

白く出来上がる釉薬には何種類かあるが、
一番パートが厚く、不透明な感じにあがる白い釉薬だ。

いつもなら他に3~4種類の釉薬を攪拌し、
ひとつの器に2~3色の釉薬をかけ分けたり、
重ねがけするのが常だが、
受注作品は「白い器」ということなので、
今回は白一本やりである。

まず、器を1点ずつ水をつけたスポンジでこすり、
小さな付着物を落とし、
釉薬の馴染みをよくする。

撥水剤を筆で器の底の面に塗る。
乾かす。

気持ちを込め20分間、重たいブレンダーで釉薬を攪拌し、
艶よく、均一に溶けたことを確認して、釉がけをする。

釉薬の乾燥を待って、
器の裏の高台についた釉薬を丁寧に削り取る。
そこが雑だと、釉薬が溶け出して、
窯の中で事件が起こるので、
とにかく丁寧に、完全にふき取る。

会員ができることはそこまでなので、
後の大変な作業をやらずして、
「いつ出来上がるんですか?」
「〇月〇日までに必要なんです~。」
「なんで、焼いてもらえないんですか?」などとは
言えないのだ。

自分がものつくり人だからこそ分かる、
作品つくりの大変さを感じ取れるからだ。

一方、欲しい人は
「今度、白い器で作ってね。私、器は白が好きなの」
「この前、いただいたお湯呑み、とても評判がいいので、
10個でも20個でも造ってくだされば、全部いただくわ」
「全然急いでいないけど、今度はうちで皆さんをお呼びして、
陶器市しましょ。いつがいいかしら」
などと、話を進めてくださる。

ありがたいことだが、
プレッシャーがハンパない。

もうすぐ生まれるベイビー。
産後も気を付けなければいけない目下、最終段階の妊婦。
赤ちゃん返りが想定される孫。
休みがうまく取れずに、役立たず呼ばわりの婿。
鎖骨を骨折した
ひとり暮らしのアートディレクター。
とやかく口うるさい文句だけ垂れてるダンナ。

と、私の周りには
なかなか濃いキャラクターが揃っている。

今朝早く新しいカウンセリング希望のメールもきた。

さしずめ、
「きりきり舞い KIMINOの夏」
そんな舞台が開幕だ。

いざ!




2020年7月18日土曜日

アートディレクター、骨折


出がけにバタバタしている時、
玄関に置いたバッグの中で、
ケータイの着信音が立て続けに7~8回鳴った。

LINEにあっちからもこっちからもメールが届いている感じだ。

慌てて洗面台から手をぬぐいながら駆け付け、
中を見ると、
正にファミリーLINEに私以外の家族が
やんややんやとメールを送り付けているところだった。

発信元は次女。

よく読むと、「激しく転倒して、鎖骨を骨折」とある。
添付されていた写真がこの写真。

どうやら出勤途中に駆け出して、
長いスカートの裾が足にからまり、転倒したらしい。
思い切りよく転倒し、きれいに鎖骨が折れているという。
しかも、利き腕の右側だ。

鎖骨は骨折箇所がくっつくのをじっと待つしかなく、
2か月は姿勢を整える矯正ベルトを装着したまま、
静かに暮らすしか術はないとのことで、
写真のようなスタイルになった。

星飛雄馬の大リーグボール養成ギブスかのような、
がっつりした矯正ベルトで固定したまま、
仕事も生活もするのは大変そうだ。
(まず写真のTシャツは脱げないのではさみで切り裂いたらしい)

しかも、鎖骨の骨折はとりあえず相当痛いらしい。

あと2週間で出産を迎える長女と
心配性であれこれ口は出すけど、何の役にも立たないダンナが、
やいのやいのとメールに書き込んでいる。

私も「大きな仕事が一段落し、
神様が少し休みなさいと言っているということよ」と、
返信した。

7月下旬に出産した後、
産後の予後に1か月は手助けが必要な長女と、
服の着脱から食事の準備や後片付けなどができない、
2か月は安静にしなければならない次女。

とりあえず自力で生活できるかやってみるとは言っているが、
もしかしたら、来週から次女は実家に帰り、
8月に入ったら、
今度は長女宅に通うか泊まるかの事態になるだろう。

私の体はひとつしかないのに、
よりによって同じ時期に長期ヘルプの必要な娘が二人。

専業主婦でもないのに、仕事もあるのに、
幽体離脱か?
専業主夫はどこいった?何やってる?

鎖骨を骨折していても、
肘から下は使えるので、何とかリモートワークはできるというが、
ここで無理をしては一生、悔いの残る結果になるやもしれぬ。

また、
産後の女性の体は子宮内の傷が治るのに1か月かかるので、
そこで新生児の世話はもちろん、
上の子の世話や家事までがんばってしまうと、
一生、悔いの残ることになるという。

なに~!
どっちもここが一番、
大切な時じゃないか!

私としてはどっちも助けてあげなければ
一生、悔いが残ることになるにちがいない。

よくもまあ、一大事が重なってくれたわと思うが、
出産はお祝い事だし、
骨折も神様がくれた休暇だと思って、
とにかく無事にこの夏を乗り切ってほしいと願うばかりだ。

だから、私は、
得意の「チャンネルの切り替え」
(今、チャンネルはガチャガチャ切り替えないが…)を発揮して、
優先順位のつけたら横に並べず、
縦に並べて、
1番前のものからひとつずつ片付けていこうと思う。

2020年、
久しぶりに家族4人が心をひとつにして、
この大変な事態に挑戦する夏になりそうだ。

コロナが忍び込まないよう、
危うきには近寄らず、
もちろんマスク着用で県境を越える所存である。

ばぁば、おきばりやす!


2020年7月11日土曜日

KIMONO展と韻松亭








上野の東京国立博物館(通称・東博)で行われた
「KIMONO」展に行ってきた。

4月中旬から開催予定だったものが、
コロナで延期になっており、
6月30日から、ネット予約のみの受付で、
厳戒態勢の中、ようやく開催にこぎつけた形だ。

今までなら、東博で行われた日本画展など、
有名どころの展覧会は長蛇の列、
1時間待ちなど当たり前という状態だった。

しかし、その主たるお客様の高齢女性にとって、
ネット予約はハードルが高かったらしく、
会場は40~50代の女性が中心だ。
しかも、人数制限をしているせいで、
程よい人数しかおらず、とても観やすかった。

私の友人も自分ではネット予約はできなかったからと、
誘いに喜んでのってくれ、
朝10時の回に申し込んで会場入りした。

KIMONO展の概要は
鎌倉時代から現代にかけてのKIMONOの変遷を
実物の着物を展示することで見せている。

時代ごとの柄いきの特徴や
その時代の流行などがよくわかり、
時代の空気を表すツールとして、
とても興味深く、面白かった。

また、天皇に嫁いだ徳川秀忠の娘・和子のきものは
贅を尽くし、趣向をこらし、
大胆かつユニークな柄いきで、
いかにも金に糸目をつけず、当時の職人技を結集したといえる
作品で印象的だった。

昔は今のような帯結びではなく、
細めの帯を巻いただけのしどけない着方だったので、
逆にきものは後ろから見て一服の絵になるよう
図案ができており、
その大胆な構図と図柄の個性に驚かされる。

会場内の撮影がまったくできないので、
お見せできないのが残念だが、
現代の無地場の多いきものに比べ、
びっくりぽんな図柄ばかりだった。

また、会場には着物姿の人も多く、
真夏のこの時期の着物を自分で着てこられる着物好きが
参集していて、ひそかに競い合っている様が見てとれ、
自分は雨を気にして洋服にしてしまったが、
目を楽しませてもらった。

最後にミュージアムショップで
天然石を用いた根付をみつけ、
着物の帯にワンポイントでつけるために購入した。

どうやら縁起物らしく、
私が選んだものは
「如意」金運・財運が向上し、すべてが
順調に思い通りになる。
とある。

まあ、一種のお守りだと思うので、
大切に身に着けよう。

KIMONO展の後は、
上野といえば「韻松亭」なのではと思い、
こちらも事前予約をした。

桜並木のメインストリート沿い、上野精養軒の手前にあり、
相当古い日本料理のお店だ。

自分が上野のお山に通っていた当時は
料理の種類からいっても若者向けではなかったので、
一度も行ったことがなかったが、
ここ10年ほどで、いいなと思えるようになったお店だ。

借景に桜の古木を臨み、
今の時期の緑の世界を愛でながら、
籠に詰められた数々の日本料理が、
目にも舌にも楽しいコースだった。

ここの一押しは
朝からそれ専用に練る職人さんがいると聞く
ゴマ豆腐で、
揚げだしになっていたり、竹筒に入っていたり、
茶碗蒸しに沈めてあったりして、
美味である。

最後の甘味も自家製の麩まんじゅうで、
こしの強いよもぎ麩にこしあんが入っていて、
とにかく美味しかったので、
ついお土産に5つ入りを買ってしまった。

お菓子屋さんで麩まんじゅうを作っているところはあるが、
ここは料理屋さんなので、
どこかのデパートやお店で買うことはできないので、
より価値があるように思う。

家に持ち帰り、
相変わらず、ひと口でポイッと食べてしまうダンナに
あきれつつ、
私は5つのうち3つをいただき、
余韻を楽しんだ。

こんな展覧会鑑賞や外食自体が
難しい世の中になってしまったのが悲しいが、
少しずつ回りだした経済活動の一端に参加して、
時折、心とおなかを潤したいと思う。



2020年7月7日火曜日

アートディレクターYOKO









6月24日に横浜駅に隣接する「NEWoNAN YOKOHAMA」が
1か月半遅れでオープンした。

場所は元CIALと東急ホテルがあったところで、
そのあたり全部をぶっ壊して、
ひとつの巨大な商業施設へと変貌した。

オープンした日、私は折しも横浜に仕事で来ていたが、
コロナのこともあって入場制限がかかっていたので、
横目で「ついにオープンしたのね」と通り過ぎた。

今日、ようやく中に入って見ることができた。

「新しい横浜」をうたい文句にしているだけあって、
本当に横浜らしからぬ印象の店内だった。

たとえて言えば「六本木」的といおうか。
おしゃれで豪華なくせに、ナチュラル。

コンセプトは
「未知なる、Me」

立派な冊子の表紙には
その商業施設そのもののコンセプトが詩のように掲げられ、
他のショッピングモールとはちと違うと主張している。

何を隠そう、
この商業施設のアートディレクターは
我が娘YOKOである。

次女はこのブログでは実家で私と一緒にマーマレードを煮たり、
ショコラオランジェのチョコがけをしたりしているが、
実はグラフィックデザイナーである。

しかも、私に似ず、謙虚で地味な性格なので、
大きな仕事を成し遂げたり、賞をもらったりしても、
決して自慢しない。

親兄弟にも自慢してくれないので、
いつも死ぬほど働かされていることは知っているが、
どんな仕事をしたのか
よく分からずにいる。

しかし、今日、行った
「NEWoMAN YOKOHAMA」の
アートディレクターだったとしたら、
そりゃ相当でかい仕事をやらかしたと言える。

ちなみに
「アートディレクターというのは
広告・Webサイト・パッケージなど、
ビジュアルデザインの指揮をとるクリエイティブチームの
責任者である」
と、ググったところ出てきた。

確か関係者の一覧表には何十人かの名前が出ていたから、
そのメンバーの頭だったのかもしれない。

建物そのもののデザインは
今を時めく建築家・田根剛だ。

外観も素敵だったが、
内装にふんだんに使われているタイルも特注品で
ニューマンのNとMがデザインされている。

トイレや授乳室などもすごく素敵だし、
壁にかかっている看板の類のデザインセンスがいい。

次女がこの建物のどこにどの程度関わっているのかは
よく分からないが、
メインビジュアルに使われている油絵タッチの女性は
次女が描いたもので、
この映像やコンセプトをもってしてコンペに勝ち抜き、
その流れで次女がアートディレクターを仰せつかったと
聞いている。

おかげで次女は昼も夜も夜中もなく働き、
コロナの危機が迫ろうと関係なく、
指示を出し、調整し、修正を重ね、
開業にこぎつけたらしい。

結果、疲れはて、もう辞めたい病が再発。
「今度こそは辞めてやる~」と
今までにも何度となく聴いたセリフを
またしても叫んでいる。

まあ、産みの苦しみは
この業界にはつきものだし、
理解不能の経営者とのあつれきも分からなくはない。

しかし、生み出した完成品は
横浜らしからぬ気品とセンスの良さに
ナチュラルさを兼ね備え、
どこ吹く風で、
凛としてそびえたっていた。

自分の手掛けた作品が世の中に残せたんだから、
羨ましい話だ。

だから、私は次女にLINEを送った。
「わたしゃ、あんたを誇りに思うよ」と。

アメリカ人が何かというと子供を褒める
「I am proud of you」という奴だ。