2024年3月30日土曜日

利休忌と桜の着物










3月30日、
お茶のお稽古で
今年の利休忌が行われた。

利休忌とは、
茶道の祖である利休さんを偲んで、
表千家茶道の家元を筆頭に
全国各地のお茶のお稽古場で行われる
行事のひとつである。

茶室の床の間には
利休さんのお姿が描かれたお軸がかけられ
菜の花が活けられる。

まずはお茶湯といって
利休さんにお茶が供えられ、
お社中のメンバーが一服ずつ薄茶をいただく。

その後は、年によって内容は変わるが、
普段はできない七事式と呼ばれる
8種類の茶道のお遊びの中から
いくつか選んで楽しむのが恒例だ。

今年は午前中に「廻り花」と「花月1組」
午後から「茶かぶき」と「花月2組」が
行われ、
私は「お茶湯」「廻り花」「花月1組」
そして、「茶かぶき」に参加した。

「廻り花」はひとつの花入れに
メンバーが順番に花を生け、
景色の変化を楽しむというもの。

竹の花入れには3つの段があり、
それぞれに活けた花の組み合わせで
全体のバランスが変わる。

もちろん、茶花の生け方の勉強を
楽しみながら体験するというのが
主なる目的だ。

「花月」というのも七事式のひとつ。
5人1チームで行い、
折据という小箱に入れた小さな札の絵柄で
役目が変わり、
お茶を点てる人、お茶を飲む人が
入れ替わりつつ
作法に則って所作を行うというもの。

「花月、百篇おぼろ月」という言葉があるほど
実は難解なゲームで
100回やっても
なかなか理解できないという意味だ。

というわけで、お遊びと言っても
道は険しく、奥深い。

最後の「茶かぶき」とは
お濃茶の聞き茶のようなもの。

亭主に指名された人が、まず、
「上林」と「竹田」という2服の濃茶を点て
5名のお客様が順番に飲んで、味を覚える。

次に、本茶と呼ばれる先の2服と同じお茶と
更に別のお茶の計3服を飲んで
そのお茶の名前を当てるというゲーム。
(つまり、濃茶を5服飲むことになる)

今回の七事式のメインというべきもので
コロナ禍の間は全くできなかった
ひとつのお茶碗で数名が飲み回すという
お濃茶ならではの作法が
今年、4年ぶりに復活したことになる。

「茶かぶき」においては
私の役目は「執筆(しひつ)」と呼ばれる
記録係。

京都の家元では
この役目は家元自身が勤める
重要な役どころ。

亭主に続いて、料紙と呼ばれる奉書の束と
硯箱をもって席入りし、
お客様が本茶を飲んで、この味は何々と
思い定めた名のり札を回収し
それを奉書に記録する係。

訪問着を着て、袋帯を締めたいでたちで
前かがみになり、
硯で墨をすり、筆で奉書に記録する。

硯で墨をするなんて半世紀ぶりだし、
畳に広げた奉書に筆で文字を書くなんて
考えただけで無茶な話だ。

今朝、朝ご飯を食べた後に、
着物の着付けを終え、
試しに前かがみになって
スケッチブックに筆ペンで練習してみたが
とにかくお腹が苦しくて
ほとんど吐きそうになった。

筆ペンを使ってテーブルで書いたとしても
大した字が書けるわけではないのに
畳の上の奉書に毛筆で書くなんて
できる道理がない。

この役が振られるなんて
なにかの罰ゲームかと思うほど、
憂うつな気分だった。

しかも、それは単なる記録というだけでなく、
3服全部当てられた人には
書いた奉書がプレゼントされる。

お家元では、当てた方は家元の手になる
奉書がいただけるとあって、
選ばれたお客様役の方々は
はりきって茶かぶきの式に臨まれる。

いただいた奉書は持ち帰って表装するという。
きっと家宝にするにちがいない。

しかし、今日の茶かぶきで全部当てても
私の書いたかなくぎ流の文字では
もらっても有難迷惑というものだろう。

内心、だれも当てられませんようにと願ったが
願いもむなしく
5名のお客様の内、
5番目に飲んだお客役の人が
3服とも名前を当てた。

その方は期せずして同じ曜日のメンバーで
とても喜んでくださったけど、
本心はどうか、真意のほどは分からない。

ともあれ、
本日の一番の緊張の役どころは
こうしてなんとか無事に終了した。

今日は茶かぶきに臨む衣装として
濃い紫の地に桜の花びらが舞い散る訪問着を
選び、
帯は同系色の袋帯、
帯締めに桜色を指し色にしてみた。

今年の桜の開花は例年よりだいぶ遅れ、
ようやく昨日、
東京に桜の開花宣言が出された。

この時期にしか着ることのできない桜の柄。
しかも、桜柄はお花見には着てはいけない
暗黙のルールがあるとか。

日本の春を寿ぐ着物に身を包み、
お濃茶の一座建立の文化の復活を歓び、
お茶の同好の士と共に
伝統文化に頭と体を使った濃い1日。

いやはやお疲れ。
やっぱり帰宅後はビールが旨い。












2024年3月26日火曜日

聖矢君のコンチェルト

 












久しぶりに
みなとみらいの大ホールで行われた
コンサートに行ってきた。

昨今、コンサートに出かけると言えば
石田様に偏っていた私だが、
今回のお目当ては、期待の新星
亀井聖矢君のピアノだ。

コンサートのタイトルは
東京交響楽団 特別演奏会と銘うたれ
東京シンフォニーオーケストラのゲストとして
聖矢君がソリストとして呼ばれたという形だ。

指揮はテレビでもよく見る
原田慶太楼氏。

朝からかなり激しく雨が降っており
気温も10℃に届かないほど寒い、
桜の開花が待たれる3月26日。

桜木町駅から地上に降り立つと
みなとみらいの景色は霧の中。
まずは友人と待ち合わせ
牛タンで腹ごしらえをして、
ホールに向かった。

本日も強運の私めが引き当てたのは
前から3番目の9番10番という席で、
中央のピアノに座った聖矢君を
斜め後ろから彼の横顔を見つつ
ピアノを弾く手元がよく見えるという好位置。

指揮の慶太楼氏は
ピアノのすぐ向こう側の台に立っているので、
振り向いて聖矢君に合図を出す度に
正面顔が目の前にあるという
絶好のポジションだ。

曲目は
チャイコフスキー
「エフゲニー・オネーギン」よりポロネーズ

ショパン
ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調op.11

プロコフィエフ
ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調op.26

最初のポロネーズにピアノはない。
まずは東京交響楽団の演奏だったので、
指揮者の慶太楼氏がどんな指揮なのか
じっくり見ることができた。

初めて観る生慶太楼。
足が長くすらっとした体つきで
顔はテレビで見ていた通りだ。

地紋の入った凝った黒のジャケットに
無地の黒いパンツ、
エナメルの黒い靴。
そして、ちらっと見える真っ赤な靴下。

真っ赤にもほどがあると言いたくなるような
真っ赤な靴下が
ズボンの裾からチラ見えしている。

動きの大きい指揮ぶりで
すごい熱量でタクトを振ったかと思えば、
いきなり止まって
「自由に謳ってごらん」みたいなポーズ。

まあ、プロフィール写真のポーズを
見ても分かる通り
自分が大好きなことは間違いない。

でも、その自信のみなぎる背中は
脂ののっている男の色気を醸し出し
悪くない。

ハッキリ言って私好みかも。

年表をみるとまだ39歳らしいが、
経歴や受賞歴がもたらす雰囲気は
40代半ばぐらいか。

とても饒舌で魅力的な指揮だった。

2曲目からいよいよ聖矢君登場。

楽団員の座っている椅子を少しよけ、
舞台中央、
舞台ギリギリにセットされたピアノは
私の席からは4mぐらい先、すぐ目の前にある。

左の袖から出てきた聖矢君は
シュッとした体つきで
23歳の若者らしく少しはにかみながら
ピアノの椅子に座った。

最初はショパンのコンチェルト。
2022年,ロンティボー国際音楽コンクール1位
併せて「聴衆賞」「評論家賞」を獲った
実力を遂に目の前で聴くことができた。

といっても、さほどちゃんとした
クラシックファンではないミーハーな私。
第2楽章の途中で猛然と眠くなり、
危うく舟を漕ぎそうになる。

まあ、右を見ても左を見ても
みんな同じような感じなので
いいクラシック音楽は眠くなるのが常とか。

でも、後半の
プロコフィエフのコンチェルトの方は
とてもドラマティックで物語性の強い曲で
弾いている聖矢君も
時折、ピアノに突っ伏したり
天を仰いだりするので、
私も一緒になって
音楽にのめり込むことができた。

とにかく、超絶技巧の難曲で
連打している右手の上を飛び越えて
更に、左手が連打されるので、
その音符の機銃攻撃に打ちのめされてしまった。

私の席からは聖矢君の手の動きが
手に取るように分かったので、
聖矢君に宿ったプロコフィエフの魂が
鍵盤から匂い立つのを感じた。

聖矢君はもの凄いエネルギーを放出し、
大曲を2曲弾き終え、
一度は舞台袖に引き上げたが、
何度も挨拶に出てきてくれた。

その時だけ許されていたスマホのシャッターを
切りつつ、
会場のお客さんは総立ちになって拍手した。

そして、アンコールに応え、
ピアノの前に座り、
静かに曲の出だしを弾き始めた。

それは、なんと
「ラ・カンパネラ」

会場中のお客さんのざわめき。
同じく私も「えっ」と身を乗り出した。

私が生聖矢君を聴きたいと思った
一番の曲が「ラ・カンパネラ」
手持ちのCDの最初の曲だ。

その曲を楽団員と指揮者が見守る中、
ひとり、彼は演奏した。

若干23歳の若者が弾くカンパネラの解釈。
そのピアノの音色の豊かな粒立ち。

思いがけずアンコールに聴けた
カンパネラで
おばさんの気持ちは一気に持っていかれた。

いつもの石田様ももちろんいいけど、
新しい推しを見つけた気分。

慶太楼氏の指揮もとても魅力的だったし…。

雨の寒い日だったけど、
「いいもの みっけ!」
眼福 眼福
とても幸せな1日だった。























2024年3月20日水曜日

『メメンとモリ』から学ぶこと

 















つい最近、生協のちらしの中に
ヨシタケシンスケさんの本を見つけ、
興味があったので取り寄せてみた。

子供向けの絵本というわけではないが、
あのほのぼのとした絵と
意味深い文章とで
いろいろな問いかけをしてくれながら
生きるヒントをもらった。

『メメンとモリ』という名の女の子と男の子。
名前の由来はメメント・モリ。

『メメント・モリ』とはラテン語で
「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」
「人に必ず訪れる死を忘れることなかれ」
といった意味。

その意味を踏まえた上で、
このふたりの名前が「メメン」と「モリ」
であることには
この本のテーマと、当然、関わっている。

3つのお話からなるこの本の
最初のお話が
「メメンとモリとちいさいおさら」だ。

ある日、モリがメメンが作ったお皿を
割ってしまう。
モリはメメンに報告し、謝った。
メメンはそれを受け入れ、
人生はいろいろな生き方があるし、
人間は年をとって、最後は天国にいく。
形あるものはいつか壊れるんだから
気にしなくていいよと言って聞かせる。

ふたりは新しいお皿を作って焼いて、
そのお皿にお料理を盛って
楽しく食べた。
でも、片づけようとした時、
また、モリが転んでお皿が割れた。

そんなお話を
ヨシタケシンスケさんの温かなイラストと
短いけれど奥深い文章で
表している。

この本を手にした10日ほど前、
我が家にある
中ぐらいの大きさの藍の染付の鉢に
小さなホツ(欠け)を見つけた。

洗って籠に伏せて置いた時に
細いステンレスの籠にぶつかって
できたものだと考えられる。

その中鉢は30年ぐらい前に
ダンナが出張で中国に行った時、
お土産に買ってきたもので、
さほど古くはないが骨董品と思われる。

以来、小松菜とがんもどきを煮つけたり、
カボチャの煮物を作ったり、
かぶときゅうりの浅漬けを作った時などに、
数えきれないほど重宝して使ってきた。

その中鉢についにホツが入ってしまったと
私も気づいてはいたが、
数日前、ダンナが洗い籠に伏せてある
中鉢の縁に、そのホツを見つけてしまった。

曰く、
「お前のものの扱い方が乱暴だから」
「お前が使うと何でも壊れる」

私はその言葉を聴いて、
一瞬、返す言葉に詰まったが
「30年も使っていて、ホツが入ったぐらいで
その言い方はないんじゃない」というと
「だったら使わなければいい」という
言葉が飛んできた。

私は何だか情けなくなって
その器を二度と使うまいと
棚の上の方にしまってしまった。

我が家のダンナはメメンではなかった。

「お皿はいつか壊れるし、
命はいつか尽きる。
人もいつか死ぬということを忘れるな」

そういう死生観を
持ち合わせている人と
持ち合わせていない人がいる。

人の死生観まで立ち入ることはできないが、
そのせいで
相手を思いやることができないのは
寂しいことだ。




























2024年3月14日木曜日

静かなる彫りデー

 








今日は春らしい穏やかな晴天。
最近、寒い日や冷たい雨の日が多かったので
とても気分まで晴れやかだ。

三寒四温とはよく言ったもので、
今週末まで温かい日が続いて
桜の開花まで一気にいきそうな勢いだ。

今日の私の予定は夜に1本カウンセリング。
それまでの日中は
HPのブログをアップすることと
このブログをアップすること以外は
目下、制作中の木版の彫りをすること。

以前、カウンセリングをしていなかった頃は
よく土日の休みの日に
木版の彫りをしていることがあって
娘に「ママのホリデーは彫りデーだね」と
言われていたが、
最近はカウンセリングが土日にも入っていて
ホリデーが定まらない。

一応、ネット上では
日曜日がお休みになってはいるが、
クライエントさんの中には
土日しか来られない人もいるので、
案外、土日にカウンセリングのことも多い。

今日はそんな中、
日中、家にずっといることになったので
じっくり彫り台の前に座り込み、
最新作の彫りをした。

新作は3点連作の小品で
展覧会を見据えた「おみやげサイズ」

お客様の手の出しやすいミニ作品で
当然、価格もお手頃になる。

モチーフは紫陽花で
「雨のシリーズ」ではあるが
雨のない紫陽花
雨が遠景シルエットの紫陽花
雨がメインモチーフの紫陽花
という3パターン。

いずれも紫陽花の花は
ひとつかふたつしか出てこない。
廊下とかどこかのコーナーとか
トイレにでも飾っていただければとと
思って創っている。

一方、目下、読んでいる小説がある。
原田マハ作「板上に咲く」

棟方志功とその妻チヤの物語。
出会いから、結婚、
棟方志功が柳宗悦らに見いだされ、
版画家として成功していくまでが
書かれている。

大昔、映像で見た版木に顔をくっつけるように
して彫る棟方志功の版画にかける想いと
夫を見守り、
そばに寄り添い手助けし続けた妻。

戦前戦中の時代の空気感と
ひとりの貧しい青森出身の青年が
がむしゃらに生きた人生。

全編、会話が東北弁で書かれているので、
尚、臨場感が増す。

と、同時に
同じ版画家でも自分にはあんな
ハングリーさはないなぁという思い。

小器用にあれもこれもに手を出して
あれもこれも体よくまとめ、
よく言えば、ファジーと言おうか
バランスがいいと言おうか
結局、器用貧乏な自分を思い知る。

〇〇バカにはなれないのは性分なので
今更、変えることはできない。

ひとつのことしか見えない男と、
そんな男に惚れこんで
一途に支えようとする女。

どちらにもハマらないなぁなどと
考えながら、
目の前の版木を静かに彫った。

志功は元々、弱視で
途中から、片方の目の視力を
ほとんど失い、
版に目をこすりつけるようにして
彫っていた。

時折、彫刻刀が版木を支える手をかすめ
血がほとばしることもあったという。
それでも、板面を血で赤く染めながらも
彫り続け、
その姿は何かにとり憑かれたようだった
とある。

聴力を失っても尚且つ、作曲した
ベートーベン。
ほとんどの視力を失っても
版画を制作し続けた棟方志功。

その生業にとって大事に体の一部を
差し出さなければ
到達できない境地だとしたら、
残念ながら、私は恵まれすぎている。

しかし、今年の「文学と版画展」の
1冊として
「板上に咲く」を選んで
自分の紫陽花の花を装丁に使う案は
悪くない。

そんなことをつらつら考えながら、
うららかな春の1日、
静かに彫りデーが過ぎていった。













2024年3月11日月曜日

ある死生観

 


昨日、偲ぶ会に伺ったヒデ先生は
素晴らしい死生観の持ち主だった。

スクリーンでは在りし日の先生が映し出され、
最後に舞台に立たれた時の
スピーチとダンスが披露された。

その中でマイクを手にした先生は
今の病状と死に対する思いを語られた。

先生は肺がんで亡くなられたのだが、
それは肺がんの再発によるものだった。
再発が分かった時にはすでにステージ3で
手術は不可能、
余命は半年という宣告を受けたという。
その時、先生はまだ71歳。

医師からその宣告を受け、
先生はこう考えたという。

「QOLは生活の質という意味だけど
自分のQODを考えてみた。
QODは、Quality Of Death=死の質
(そんな言葉はないが…)
あと半年、
病院に入って緩和ケアを受けながら
死を待つのがいいか、
多少、生きている時間が短くなっても
最後の最後まで踊り続けているのがいいか。

自分は最後まで好きなことを
やっていたい」と。

ダンサーの鶴世夫人には
「酸素ボンベ背負って踊っていたら
かっこいいんじゃない」と
笑って言っていたという。

「半年と宣告されたのは悪いことじゃない。
いつ死ぬのか分かれば
それまでに何をしようか考えられるし、
悔いなく日々を送ろうと思える」

「死ぬことは怖くない。
前世があったように
生まれ変わることもできるだろう」

「僕は最後にいう言葉も決めているんだ。
「おやすみなさい。またね」って
言うつもり」

本当のところは分からないが
こんな風に軽やかに死を受け入れられたら
いいなぁと思った。

ご臨終の際に病院に駆け付けたという女性が
会場で挨拶に立ち話してくれた。
「鶴世さんから連絡があって、
車で病院に駆け付けた時、
ヒデ先生は今まさに旅立とうとしてました」

でも、鶴世さんが耳元で
「〇〇さんが来てくれたわよ。
判る? ヒデさん、目を開けて!
記念写真を撮りましょう!」といって
ヒデ先生を挟んで3人の写真を
鶴世さんのスマホで自撮りしたという。

ふたりは最後の最後まで踊り続けていたし、
天国に旅立つ瞬間も
まるで「いってらっしゃい」とばかりに
送り出したという話を伺って、
鶴世さんは本当に強い人だなと思った。

遅い結婚で子どものいなかったおふたり、
10歳の年の差婚だったけど、
まさにパートナー同士だったんだなと思う。

死は誰にでも訪れる免れないものだけど、
いかに受け入れ、
その日までをいかに過ごすのか。

昨日今日は
いつにも増して考えさせられた。

まずは1日1日
丁寧に真摯に生きよう!!
ご飯もしっかり味わって、
今日あることに感謝して!!


タンゴの恩師を偲ぶ会

 
















合宿の時の集合写真
ヒデ先生のすぐ後ろに写っているのが私


コロナ禍が始まる前、
3年間ほどアルゼンチンタンゴを習って
いたことがある。

鶴見大学の生涯学習のクラスで
「アルゼンチンタンゴの歴史とダンス」という
タイトルの講座で
講座の前半がタンゴの歴史や音楽鑑賞で
後半がタンゴレッスンという
珍しい構成だったので
興味をそそられ受講した。

なぜ私が興味をもったかというと
その当時、
参加していた版17というグループで
近い将来、ブエノスアイレスで
グループ展ができるかもしれないという
話がでて、
現地に行くなら、タンゴを踊れたら素敵かも
というミーハーな好奇心が発端である。
(結局、展覧会は実現しなかったが)

その頃から(今もそうだが)私は
ヴァイオリニストの石田様のファンだったので
アルゼンチンタンゴ界の異端児ピアソラの
曲は大好きでよく聴いていた。

どうやらこの講座を受講すれば
ピアソラについても解りそうな感じだった。
それに、以前、フラメンコをかじった身として
次はタンゴにも挑戦したいという思いがあり
『一粒で二度おいしい』みたいな
この講座は魅力的だった。

その講座の前半の講義担当が
鶴見大学文学部教授のヒデ先生。
後半のダンス担当が
奥様でダンサーの鶴世先生だった。

ヒデ先生は大学で教鞭を執る傍ら
趣味でアルゼンチンタンゴを
鶴世先生について学ぶ内に
鶴世先生のダンスのパートナーになるほど
上達し、更に結婚までしてしまったという
異色のカップルだ。

私はその講座に通い、
それなりにダンスも踊れるようにはなったが
何と言っても
ピアソラについていろいろ学べたのが
収穫だった。

先生は私のピアソラ好きに配慮して
講座内容にピアソラ関連をたくさん
盛り込んでくださった。

しかし、踊りの方はというと、
タンゴは男性と組んで踊るので
男性のリードがあって初めて成立する。

フラメンコはひとり踊りだったが、
タンゴの男性のリードありきの踊りには
せっかちな私はなじめないところがあり、
自らがステップを踏み出しそうになる度
注意されていたのを思い出す。

なにしろ生まれてこのかた
男性のリードで動いたことがないので、
一緒に講座をとっている
音感の鈍いオヤジと組まされたりすると
つい勇み足になってしまうのだ。

それでもヒデ先生と組むと
とても優しい包み込むようなリードで
女性を運んでくれるので、
自分の実力以上にうまくなった気がして
とても楽しかったことを思い出す。

特に那須にある大学の寮に合宿して
2日間踊りあかした時は
ヒデ先生と組んで、
ある種、トランス状態になるほど
自然で滑らかに踊ることができた。

あの境地は忘れることはないだろう。

そんなヒデ先生が
昨年9月に肺がんで亡くなった。

私は講座を辞めて久しかったので、
全く知らずにいたのだが、
ある日、鶴世先生からのLINEで
偲ぶ会をするという連絡を受けた。

昨夜はその偲ぶ会に伺うために
ミューザ川崎の市民交流室まで行ったが、
ミューザ川崎シンフォニーホールは
何度となく石田様のコンサートに
行っている場所だったので
何かご縁のようなものを感じた。

偲ぶ会は先生の在りし日の映像、
学生時代と同僚のご友人のあいさつや
何組ものダンスで構成されていた。

最後はピアノとバンドネオンによる演奏で
曲目は
ピアソラの「オブリミオン」と
「アディオス・ノニーノ」だった。

「オブリミオン」は私も自分のお葬式で
かけてほしいと思っていた曲だし、
「アディオス・ノニーノ」は
ピアソラのお父さんがなくなった時、
父親に捧げた曲だ。
「オブリミオン」はピアソラの曲の中で
私が一番好きな曲。

在りし日のヒデ先生にリードされて
「オブリミオン」を踊った感触が
蘇ったようで
胸がキュンとなった。

鶴世先生以外
ほとんど知る人のいない偲ぶ会。

ひとり異邦人のような気分で参加していた
私に
ヒデ先生が「大丈夫かい」と手を差し出し
次のダンスに誘ってくれたような気がした。

ヒデ先生のご冥福を祈ります。