2015年7月11日土曜日

『七月大歌舞伎』に出陣

 
 
 
 
 
さあて、今日から歌舞伎座に月3回繰り出すという歌舞伎ウィークが始まった。
もちろん、個人的なイベントである。
 
6月始め、7月の歌舞伎座の演目と出演者を知って、
「これは何が何でも行かねば」と勢い込んでチケット入手に奔走した結果、
ちょっとした手違いもあって、
何と昼の部1枚と夜の部2枚のチケットが取れてしまい、
結果、夜の部はひとりで2回観に行く羽目になったのだ。
 
今日がその1回目。
 
本当は次女とふたりで観にいくつもりが1枚しかチケット入手できず、
「ひとりでは行きたくない」というか、「寝てしまいそうだ」という娘を捨て置き、
「ひとりででも行くぞ」と決め、キモノまで着込んで出掛けたという次第だ。

今月はものすごく人気で、裏で手を回してチケットを取ろうにも
とても取りにくかった。
それほどみんな期待していると思われたが・・・。
 
実は2日前の夕刊に7月の歌舞伎評が新聞に載って、
概ね好評だったにも関わらず、
海老蔵だけが可哀想なぐらいぼろくそに書かれていた。
 
ひと言で言うと
「型にはめて演じても心が伝わってこない、演技に深みがない」ということらしいが、
どうも最近の海老蔵は新聞でよく書かれているのを見たことがない。
 
「若手人気ナンバー1の集客力はあるものの、
腹式呼吸がしっつかり出来ていないから、声がくぐもっている」だの、
「歌舞伎界のアイドルかもしれないが、実力が伴わない」だの、
いずれも手厳しい。
 
それに比して、玉三郞の評価は高く、
とりわけ、今回の夜の部の『牡丹灯籠』は演出・配役の部分で、
これからの歌舞伎界の方向性を示したという点でも好評価を得ている。
 
夜の部は『熊谷陣屋』と『牡丹灯籠』の2本で
『熊谷陣屋』は歌舞伎一八番の内のひとつで、
歌舞伎の中の歌舞伎といっても過言ではない有名な演目だ。
 
その主役熊谷直実を海老蔵が演じて、新聞評がぼろくそだったから、
「さあ、本当にそうなのか」と先入観が先立つ。
 
確かに役の顔の作り方からして(顔は役者本人がつくる)
赤ら顔に大げさな隈取りで見得を切られても
今朝見たねぶた祭の山車の人形にしかみえない。
 
この役は、断腸の思いで自分の子どもの首を切って
義経に差し出す男親の役だから、
平常を装いつつ、無念の思いに駆られる男をもっと渋く演じる必要がある。
 
最近は吉右衛門の当たり役だし、
亡くなった父親の団十郎も得意とした役どころゆえ、
つい比較されることになるし、教えを請おうにも亡くなっているからそれも出来ない。
 
一方、『牡丹灯籠』は現代歌舞伎ともいうべき内容で
言葉も平易で分かりやすく、
時代は江戸時代なれど、演出にユーモアがあり、
語り部として「牡丹灯籠」を落語にかけ有名だった三遊亭円朝を高座に出して
進行役を務めさせるなど、観るものの理解と親密度を出すことに成功している。

しかも、三遊亭円朝は猿之助が演っており、
ここも軽妙洒脱な役どころが十八番の猿之助にはぴったりのはまり役だ。
 
更にここでの出色の出来は中車=香川照之で
全編軽妙な語り口で、玉三郞との掛け合いは息つく間もない名コンビだ。

香川照之は 
お家の事情で猿之助一門に40過ぎてから入門し、
中車を名乗って歌舞伎役者になったものの、
いつものテレビドラマで発揮されるような演技力は影を潜め、
最初は歌舞伎特有の言い回しが板につかずに声だけ枯れるという無様さに
観ているこっちがハラハラした。
 
しかし、今日の伴蔵という役どころは彼の持ち味にぴったりはまり、
香川照之の才能を十分発揮し、観るものを大いに楽しませてれた。
 
『牡丹灯籠』はお化けものだから、
てっきり玉三郞が最後はおどろおどろしいお化けになるのかと思ったら、
中車に殺されて終わりだったので、それだけは心残りだったけど、
きれいなだけじゃない玉三郞の成長に今さらながら脱帽だ。
 
今の歌舞伎界は60前後の中核を担う役者が
ここ数年、相次いで亡くなったことで、
ぽっかり真ん中に穴が開いてしまった。
 
30前後の若手は育ってきてはいるが、人は呼べるが本当の実力が今一歩。
70前後の大御所は実力があっても、もはや客を呼べない。
 
玉三郞が60ちょっとだから、相次いで亡くなった役者達と同年代。
その悲しみを乗り越えて、何としても自分が歌舞伎界を牽引し、
新しい方向性を見出さねばという強い想いを今日は受け取った。
 
来週、奇しくも2回目の夜の部を2階の1番前の席から観ることになっている。
 
今日とは別の何かが見えるかもしれない。
一歌舞伎ファンとして、日本人として、
歌舞伎の未来を見つめてみたいと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿