2018年10月2日火曜日

最後の『版17展』 始まる

 
 
 
 
 
 
台風一過の10月1日月曜日。
 
25回目を迎えた『版17展』が始まった。
場所は銀座2丁目ショパールの入っているビル9階、
INOAC銀座並木通りギャラリー。
 
ここでするのは3回目。
 
しかし、諸般の事情があって、『版17展』は今回をもって解散する。
 
25回もグループ展を存続させるのは、本当に難しいことだし、
とりわけ、海外展にも精力的に取り組み、
パリ、リュブリアナ、プラハ、台北、沖縄?、クロアチアなど、
東京や横浜以外の場所で開催することの大変さを思えば、
凄く頑張ってきたグループだと思う。
 
構成メンバーが日本の版画界を牽引するメンバーだったこともあり、
その人脈とネットワーク、政治力に長けた人物のお陰で、
諸外国との交流や海外展が叶ってきたのだ。
 
しかし、年月が経ち、
会の発起人である由木礼先生はお亡くなりになり、
次に会長を接いだS先生のところは奥様の病状が悪化し、目が放せない。
現在の会長が精力的に世界展開してくれたけど、
会長そのものが中国中心に軸足が移ってしまい、
まとめ役が出来ない状態になってしまった。
 
それに誰もが年をとり、
IT関連がまったく駄目な数名を抱え、
役割分担しようにもうまくいかない会の機構など、
誰か数名の手弁当で頑張るには、
時間も体力も気力もないというのが本当のところかもしれない。
 
夕べはそんな会のオープニングパーティ。
ギャラリートークと銘打って、
作家がひとりずつ、自作について語った。
 
13人ほどの誰ひとりとして、版17についての思い出や思いは語らず、
ひたすら自作についてのややこしい説明が続いた。
 
最後の数名というところで順番が回ってきた。
 
私は自作を語る前に、自分にとっての版17はという内容で、
初参加の時、三渓園の燈明寺という場所に合わせて、
作品を風呂先仕立てにし、連日、着物で通ってお茶を点てるという
パフォーマンスをしたことを話した。
 
その2年後のチェコのプラハ展の時は、
着物で木版の摺りをするというパフォーマンスをしたりと、
私は版17で着物を着ることが多かった。
 
「なので、最後の今日も着物を着てきました」と挨拶した。
 
その話の後に、作品についても少し触れた。
 
昨年6月、初孫が生まれ、
自分の生んだ娘が、更に娘を産み、
世代が徐々に移っていくということをしみじみ感じたという話をした。
 
17名中14名が男性で、残り3名の女性作家の内、
「ばぁば」になったのは私だけ。
他の2名は子どもは生まなかった女性達だ。
 
私以外のどの作家も、作品のコンセプトは理屈っぽく、
よくいえば哲学的、悪くいえば、自己満足的。
たぶん、会場のお客さんのほとんどが
よくわからないという感想を持ったと思う。
 
しかし、私の作品の重なったたくさんの時計草は時間の経過や、
世代の違いなどを表していて、
「私は今、この鮮やかな色の層の端っこあたりで、
もうすぐモノトーンの層になる手前でジタバタしているところ」と説明し、
温かな笑いと拍手をいただいた。
 
「あのたくさんの花には意味があったんだね」と
会場で隣の人にささやいた男性作家の声が聞こえた。
 
男性の評論家や年配の女性達も盛んにうんうんと頷いている。
 
版画家というのはというか、
芸術家の世界は昔と大差なく男性優位社会だが、
「そんな理屈をこねくりまわして何がおもしろいの」と内心、思っていた、
会への違和感みたいなものが、
話し終わってスルスルと解けていくような感覚を覚えた。
 
版17がこれにて終了してしまう寂しさと、
もったいないという気持ち、
どこか男どもの中で居場所がない感じを卒業できる安堵感が、
ない交ぜになってこみ上がってくる。
 
これから12日までの会期中、
また何回か会場に通って、
静かにこの展覧会とメンバー、会の思い出などに想いを馳せよう。
 
人生もゆっくり時が移ろい、
世代が変わり、
生と死が行き交う。
 
そんなひとつの変化を穏やかに受け止めようと思うのだ。
 

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