『平場の月』の小説が山本周五郎賞を受賞して
とてもいい小説だと話題になった頃、
単行本の時に求め、読んで知っていた。
中学の時の同級生の「青砥」と「須藤」が
50代になって地元に戻っている時に再会し、
おつきあいが始まるという大人の恋愛小説だ。
互いを「青砥」と「須藤」という名前ではなく
姓で呼ぶ関係。
お互いにとっての初恋の相手だが
ほんの少し頬を触れ合わすだけの淡い思い出。
時を経て、それぞれに紆余曲折があり、
わけあって独り身の状態で再会した。
病院の売店で働く「須藤」と
胃の検査のために来ていた「青砥」が
偶然会って
以後、
「互助会」的な関係をと連絡をとるようになる。
小説の方は
目次が
すべて「須藤」(女性)のセリフになっていて
「夢みたいなことをね。ちょっと」
「ちょうどよくしあわせなんだ」
「話しておきたい相手として青砥は
もってこいだ」
「青砥はさ、なんで私をお前っていうの」
「痛恨だなぁ」
「日本一気の毒なヤツを見るような目で
見るなよ」
「それ言っちゃあかんやつ」
「青砥、意外としつこいな」
「合わせる顔がないんだよ」
という調子で話す女性なので
サバサバしているというか男性的というか
色気がないというか…というイメージだった。
しかし、映画では「須藤」を井川遥、
「青砥」を堺雅人が演じているのだが、
中学時代からの同級生ならそういう言い方
するよねと妙に納得した。
つまり、「須藤」は『太い』女性なのだ。
(芯が強いとか人に甘えないの意)
映画が封切られるだいぶ前に、
小説の中の「青砥」の心理を
役作りのため1年半もかけて
小説を読み込んだという堺雅人氏の
インタビューを見た。
何をそんなに読み込んだのかと
以前、買って読んだ本を取り出し
私ももう一度読んでみた。
その時点ではこのもどかしいとも思える
50代の男女の会話が
うまく腑に落ちずにいたのだが、
映画を観て堺雅人と井川遥の表情から
35年の時を経てなお、温めていたものが
少しずつ氷解し互いに求めあうのを理解した。
実は思いもかけない結末に
小説を読んだ時も、映画を観た時も
人生の無常を禁じ得なかったけど
それもまた現実だと受け止めるしかない。
小説より映画は中学時代のふたりのやりとりが
描かれているので、
14~15歳ぐらいの同じ年の子の感情に
感情移入できる分、
そのぶっきらぼうな「須藤」と
おどおどしている「青砥」が切なく愛しい。
映画は14日に封切になったばかりだ。
この手の映画は
あまり長くかかっているとも思えないので、
出来れば映画館で観てほしいし、
小説も併せて読んで欲しいと思う。
脇を固める役者陣もとても上手だし、
『平場の月』の様々な月も
美しい朝焼けも夕焼けも心に染みてくる。
小説の世界観を
裏切らずに映像化しているいい作品だと思った。




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