2021年4月1日木曜日

なぜか読まなければと思った本

 




週末、朝日新聞に小池真理子のエッセイが載る。

小池真理子は直木賞作家だが、
私も今までに何冊か彼女の小説を読んだことがある。

中でも「沈黙の人」という自分の父親をモデルに、
認知症になった男性の、
過去に隠された女性との出来事を書いた小説は、
私が「文学と版画展」の装丁用の作品として採り上げ、
自分の版画作品で装丁カバーを作り
グループ展に出品したこともある。

小池真理子は小説家・藤田宜永と結婚しており、
藤田宜永は同じく直木賞を受賞している。

あいにく藤田宜永の小説自体は読んだことがなく、
ただ、小池真理子の夫で
ちょっと雰囲気のある気になる男性だなという
印象を持っていた。

しかし、昨年2月だったか、
藤田宜永氏は肺腺癌で死去した。

その後の小池真理子のその痛みようが
時折、目にする彼女のエッセイなどから強くうかがわれ、
いつか藤田宜永の作品を読もうかなという
気持ちを掻き立てた。

その週末のエッセイの中で、
「藤田宜永の自伝的小説は出版当時、
あまり評価されなかったが、
もっとたくさんの人に読んでほしい」というような
ことが書いてあった。

本のタイトルは
「愛さずにはいられない」
(レイ・チャールズの大ヒット曲と同じ)

赤裸々に告白した藤田宜永の母親との葛藤、
若き日の女性関係がつづられているとあり、
なぜか、これは読まなければという気持ちになった。

母親との葛藤は心理カウンセラー的興味、
女性関係は同世代としての好奇心からである。

最近はありがたいことに2003年に出版された
古い本でも
Amazonで検索すればすぐに手に入る。

私はこの本も
もしかしたら「文学と版画」の装丁に使うかもという
考えが頭をよぎり、
文庫本ではなく出版当時のハードカバーの装丁本を
注文した。

それは長編も長編、
1500枚ものページ数、
本の厚さが3,5cmもある分厚い本だった。

届いた本の
藤田宜永のプロフィールを見て驚いた。
誕生日がナント、私と同じ4月12日。
生まれ年はダンナと同じ1950年。

藤田宜永は福井県生まれだが、
高校は早稲田高等学院で、私の弟と同じ。
(早稲田と名の付く高校の中で
100%早稲田大学に進学できるのはこの高校だけ)
大学も当然、早稲田大学で、弟と同じ。

我が家は東京にあったから
弟は通学だったが、
藤田宜永は下宿生活を送ったらしく、
小説の主人公も下宿暮らしだ。

文中には弟を介して馴染んでいた
土地や店の名前がよく出てくる。

また、小説の中には
当時、流行していたグループサウンズの歌や
海外アーティストの曲名が多数出てくるのだが、
それがいずれも「そうそうそう」とうなずける
自分も当時、よく聴いていたものばかり。

同時代、同じような環境で過ごしていた共通項が
随所に出てくることによる親近感が、
この本を引き寄せたのかもしれない。

地方都市に住む若者の方が
都会に住む学生より早熟で、
性的な体験、酒たばこの体験などは
かくも早くに経験してしまうものかと驚いたが、
遅かれ早かれ自分の身にも起きたようなことが、
自伝的小説の中で繰り広げられていた。

ページをめくるごとに
同じ時代を生きていた者同士が感じる
親密で懐かしい感情が
ふつふつと湧いてきた。

古い本の紙にはシミが浮かび、
2003年発刊当時に誰かが読んだのかもしれない
わずかな痕跡がある。

決して図書館などで読み回されたとかではなく、
書き込みもないし、ドッグイヤーもない美本だが、
誰かの手でページがめくられ、
若き日の藤田宜永が経験した若き性を
読者は追体験したのかと思うと、
胸の奥がキュンとなる。

この本が発刊されてから20年近くの時が流れ、
今、60代になった私が手に取り、
亡くなった作者の10代後半~を追体験している。

今日からカレンダーは4月に入り、
個展の準備も着々と進み、
そろそろ額縁を和室に並べ、
最終チェックをしなければというところまできた。

月日は否応なく流れ、
誕生日が同じ小説家は昨年、亡くなり、
私は今年の誕生日に展覧会の初日を迎える。

小説家と版画家と
表現方法は違うが、
生きた時代を作品に残すという意味では
幸せな職業だなと思う。

死して尚、思いを馳せてもらうには
その作品が誰かの手元に届かなければ意味がない。

それを思って
小池真理子はもっとこの本は評価されるべきと
自分のエッセイに書き、
その文章に触発されて、私は古い本を注文した。

不思議なご縁というべきか。

私の作品の行く末はさておき、
偶然にも引き寄せられたこの本を通し、
タイムスリップを楽しんでいる
ここ数日である。



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