2025年7月25日金曜日

「国宝」本で読む






映画の『国宝』を2度、観に行った。
2回目の方が1回目で見過ごしていた部分が
分かってより面白かった。

ならば、人間関係のこと、
歌舞伎へなぜ復活できたのかなど、
3時間の映画では描き切れなかった部分を
原作の小説で確かめたくなった。

Amazonで検索すると、
吉田修一氏の小説『国宝』上下巻は
文庫本で出ていたが、
映画の反響か、オリジナルの本の装丁の上に
吉沢亮と横浜流星の舞台姿の装丁が
二重にかかっているものが届いた。

いくつかの選択肢の中から、
送料485円が無料で、『anan』800円の雑誌がつくと
いうセットがあったので、取り寄せてみた。

さて、肝心の小説。

吉田修一がこの本のために考えたという
独特な文体がまず特徴的。

歌舞伎を弁士が語るような「ございます」で
終わる文末。
「だ・である調」でもなく
「です・ます調」でもない。

それに続く体言止め。

そのわき腹にぐさりとささる日本刀。
真っ白な晒し木綿に広がる鮮血から立つ湯気の
なんと獣じみたこと。
雪を赤く染めて倒れた若衆の、熱い背中に
彫られた般若の面にとける白雪の美しさ。

映画を観ているせいもあるが、
本当に鮮やかにそのシーンが目に浮かぶ。
美しい表現が随所にある。
とても映像的なのだ。

内容的には先に映画を観たせいで
何十年もにわたる複雑な人間模様や
心理の変化は小説ではこう書かれていて
映画ではこう解釈したのかと謎が解けた。

映画としては3時間は長いものだが
小説の方は上下巻あって
それはそれはの長編小説なので、
逆によくぞ3時間にまとめたと思う。

一番違っていたのは
小説では数多くの歌舞伎の演目が出てきて
その演目を演じる喜久雄や俊介の様子が
描かれているのだが、
映画の方に出てくる演目は絞り込まれている。

なかでも『曽根崎心中』と『鷺娘』が特徴的で
このふたつを
二組の役者で映画では演じている。

それが時代背景や、人間関係の変化に伴って
同じ演目を代々、継承していく歌舞伎界のあり方を
よく見せていて
個人的には映画の方が面白いと思った。

小説では最後の大演目に『阿古屋』が出てくるが
あれはちょっとやそっとでは演じられないし、
(女形の中でも玉三郎くらいしかできない)
実際に歌舞伎座で観た人には分かるけど、
小説の文章だけでは
本当のところは理解できないだろう。

なので、映画監督としても
そんな難役の『阿古屋』を
吉沢亮に求めるのは辞めて
『鷺娘』にしたと考えられるが
それが大正解だと思う。

映像美としてもとても美しかった。

また、小説の中で
万菊や俊介、喜久雄などが発する印象的な言葉が
あるのだが、
それを監督は逃がさず使っているのだが、
使う場面や歌舞伎の演目の違うところで使っていて
「お~、ここでか」と何度か感心した。

小説を読むことで、
長い年月で起こったことや、
なぜ、春江が喜久雄ではなく俊介を選んだのかの
意味が分かったような気がしたという点では
小説はとても面白かったし、
文体もいいと思った。

しかし、総括してみると、
映画の出来がとてもいいので、
個人的には映画が小説を上回ったと思っている。

小説から入ったという方には
もちろん、映画を観ることも
強くお勧めしたい。

日本映画史に残る名作だと思うから。







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